生ノ態【コト】

モノをめぐる思考と試行 01

はじまりに

 

モノとは

机に向かい周りを見渡している。築60年近くになる日本家屋の自宅二階が仕事場だ。いつも仕事をしている場をあらためて眺めてみるとモノが溢れている。本、カメラ、色鉛筆、キーボード、拾った貝殻、石、工具、配管のパーツ、試作品、などなど切りが無い。当然、モノ以外の光や音、熱など物理的な現象。データと呼ばれているもの。言語や記号、イメージその他のコンテンツと呼ばれるものも同様に身の回りに溢れている。ものを作り考えることを始めてからモノ、つまり物理的に存在する物質と付き合う方法をずっと考えてきた気がする。 その始まりにおいて、「モノに負けてはならない」と感じた。勝ち目はないのだが、負けてしまいモノとの関わりから身を背けてしまっては、発想することも具現化も何も出来ない。その決意なくしては、モノを介した創作は出来ないと実感した。確かにモノは重く場所を取り融通がきかない。思い通りに加工することが出来ず時間と素材を無駄にし、悔しい思いをすることも多い。非物質のデータのように簡単に複製し移動できたり、消去したり復元したりできない。そのうえ空間も占拠する。目の前に何もないほうがすっきりするし、気持ちが良い。だが、それで良いのだろうか。モノは自らわかりやすく語ってはくれないが、様々なことを多様に重ね合わせ無言のまま語っている。そこには、読まれることを前提とした記号は存在しない。また背後に人間によって表象される前の姿を隠し持っている。そのような気の利いたお膳立てのない、全方位に発散するような不確定であるが身を持って知ることのできる確実な出来事に惹かれる。モノから価値、意味、目的や機能を一度剥ぎ取り、物質的な元のありように戻す。そのことを通して、無限の奥行きと広がりを感じ取り予想外の気づきを味わうことを可能にする。この世界の解像度と密度が変わり、それが何らか世界に対する信頼を増すことにつながっていると感じる。

また、モノは様々な記憶を吸着し、確実にこの世の中にあった証として、触知しうる鮮明さで応えてくれる。一つの石は、地中で形成され人間の尺度を超えた長い年月を経て地表に現れ、山から川を下り大きな塊から丸い小石になってゆく。遙かな時間的な隔たりと空間的な移動をその形状と質に留め、壮大な旅を自ら記憶している。私は、海辺でその小石を何となく手に取り、その手のひらに収まるサイズ感と丸み、黒ぐろとした表面に光の粒をまぶしたような質感が気に入り自室に持ち帰り、いま目の前のモニターの下にある。壮大な地質学的な記憶に、私的な昨秋の相模湾に面した浜辺で小石と出会った日の記憶と場所の記憶も加わる。どちらもモノに取り付いた確実な疑いようもない出来事の証である。

モノとは素材である

創作に関わる者にとってモノは素材である。つまり物質的な世界全体がある種の素材として見えているのである。だから価値のあるもの価値のないものは先だって決定されたものではなく、その解釈によって付け加えられる、読み変えられるものとして認識している。また価値は、その素材が生かされる機会と状況に依存し、他のモノとの相互作用によって生じる不確定なものである。 すべてのモノが同等に素材としての価値を持ちうる存在であるならば、何を捨て何を取り置くか判断の仕様が無い。その結果身の回りにモノは減る事はなく増える一方となる。 その期間が1年2年ではなく20年30年と言う単位で続くのであるからその量は計り知れない。物量と戦い、接し方を開発しながら有限な空間に畳み込んでゆく。何かに使えるかもしれないと可能性を信じることは最後まで諦めることは出来ない。制作の中で何気なく保存しておいたモノ達に助けられることが時々ある。その経験からまたほんの小さなものも捨てられない傾向が強化されてゆくのである。

素材と言ってもそのありようは様々だ。目的に従わせ物理的に加工するための癖のない素材もあれば、発想や感覚のための標本としての素材。記憶を引き出すための見出し的な素材もある。共通するのは、確実に物質として実在し身体的にその都度多面的に知覚でき、結果ではなく可能性として開かれた存在である点である。記録を保存するアーカイブやライブラリーと同様に量的に集積することで意義が増すものである。しかし、そのモノが「素材」である以上、活用される機会がなく死蔵された状態であるならばその素材としての価値は無い。所有し保管しておくだけではなく、常にそれらに目を配り意識の上または前意識的にそのモノたちの気配を感じ続けなければ素材としての価値も損ねてしまう。モノを単に収集することは、それは鬱陶しいからといってモノを簡単に捨ててしまう人たちと結果として大きな差は無く、モノに負けているのだ。 だからモノはいつでも自ら語り始めることを促すようにしておかなければならない。モノはこちらから意識を投げかけなければ語りはしないし対話も始まらない。ときには語りだすのを待つしかない。意味ではなく声のように、または肌理や触感のようにモノは固有の響きで話しはじめる。それも限りなく具体的に。

未解発な価値

私は、すでに価値が定まったものには興味がない。なるべく一見価値のないように見えるものの中に価値を見出し、個別に読み変えることを歓びにしている。未解発なモノ達がある状況下で出会い垂直に飛躍するように解き放たれる瞬間に立ち会いたいという思いがある。であるからモノは素材性を持ち価値が定まらず中立でありながら、そのモノにしかない個別な価値を生む可能性を含んだその状態が最も存在意義があると感じる。そのためには、物をモノのままにしておくか、機能や意味が定まったものを分解し再度素材化することを通して始まりに戻し、作り替えることを考えたくなる。物質と意味において分解と再構築の手法を制作学として学ぶ時が来たように思う。そのためには日頃から語らぬモノ達と対話を試みる必要があるのだ。それも手が届き触知可能な距離感の日常的な実践のなかで、 その退屈なほど現実的な物質と対しながらも、夢想するような奥行きと広がりを愉しむ。とても遠くにある未来と最も過去に遡る原初の姿が交わる地点にあるものを思い描きながら。そのような対話を通してモノと人の共進化がなされることを願っている。

三浦秀彦

1966年岩手県宮古市生まれ。1990年代より地平線や地形、大気をテーマに身体性やインタラクションを意識したインスタレーションの制作と発表を続ける。ヤマハ株式会社デザイン研究所勤務後、1997年渡英、ロイヤル・カレッジ オブ アート(RCA) ID&Furniture(MA)コースでロン・アラッドやアンソニー・ダンに学ぶ。2000年クラウドデザイン設立 。 プロダクト、家具、空間、インタラクション等のデザインの実践と実験を行い、 日常の中にある創造性や意識、モノと場と身体の関わりについて思考している。

三浦秀彦ウェブサイト