生ノ態【コト】

26:45からの見え方 03

ー 2023年10月、エルサレム、ベツレヘム、ナザレ、アッコ、テルアビブ ー 

壁が何を意味するかは明らかだ。断絶をもたらし何にも耐え難い孤独感を壁の両側にいる人々に重圧と共に植え付ける。ある人々はその孤独感を守られていると感じるようだが、高度な通信技術で常時接続されている今日の世界ではあらゆる面で発展(ここではより多くの人々に幸福感をもたらす改善と仮定する)の阻害となりえ、おそらく壁によって自己保全を図るという方法論は意味をなさなくなっている。同時に、壁は高ければ高いほどあらゆる意味で人々の関心を集め、多くの人々がそれを越えようとする。壁の向こう側に何があるのか目にするために。しかし山とは違い、壁を越えたからと言って賞賛を受けるとは限らない。逆に、壁を超えたもしくは越えようとする人々には非難や制裁、反発や報復をもたらすだろう。なぜなら壁を建設する目的は、継続する空間を断絶して誰かに帰属するという所有概念から発している一面があるからだ。他の人間や組織の領域に侵入することは犯罪であると見做されるのだ。そして、壁はキャンバスのようにもなり得る。欧州を旅すると、多くの建物の壁面や高速道路の防音壁などに色鮮やかなグラフィティが踊っているのを目にする。ノイケルンにある私の家の近くにはBluのグラフィティがいくつかあるのだが、そのうちの一つは、残念ながらジェントリフィケーションの波に揉まれて破壊されてしまった。このようにグラフィティがどのように取り扱われ、街の風景に取り込まれているかをみることによってストリートシーンの受容のされ方、すなわち街の文化の方向性を知るきっかけとなりえる。


ベツレヘムにあるBanksyが所有するWalled Off Hotel

ベツレヘムで見たBanksyのグラフィティは、まさに街がどのように成立しているかを如実に表している。彼(Banksyはおそらく男性)の行為は、器物破損のおそれがあるとして法的に問題にされる可能性があるが芸術性に鑑みて云々、という次元の話ではない。声を上げ続けているにも関わらず国際世論に意見を届けることが難しいパレスチナの人々に代わって、拡声器ではなくグラフィティを用いて人権宣言をし、抵抗し続けているのだ。壁はその時、キャンバスでありながらいつかは倒壊することを願われる忌まわしい障壁に成り下がる。特に、たった今、イスラエル国内にあるガザとヨルダン側西岸を囲むコンクリート製の塊は。

今回の旅は、4月にパリで行ったワークショップの第二弾である。テル・アビブにあるバットシェバ舞踊団のスタジオで、12月に迫った撮影に備えて、25kgもあるスピーカー付きの真鍮製ドレスを着用するロンディーウェイ・コーザと一緒に振付を考えるためのワークショップをおこなう。ただしワークショップは終盤に回して、それまでの一週間はエルサレム – ベツレヘム – ナザレ -アッコ、とイスラエル中部から一旦北上し、テルアビブへと南下して空港に戻るという中部と北部をぐるっと一周するコースを設定した。半分休暇で半分仕事。いや仕事なんて半分以下か。航空券を購入する期日が出発日直前だっため格安のチケットは全て売り切れていて、比較的高い価格を設定しているイスラエルの航空会社El Alを利用することになったのだが、これが幸運であったことはその時は知るよしもなかった。

イスラエルの建国を宣言したベン・グリオンの名を冠する空港に降り立つ。そして電車を利用して30分程でエルサレムに到着。もう10月も目前だというのに30度を超える暑さで、乾燥はしていても一歩進むたびに汗がしたたり落ちる。イエス・キリストの存在を私は疑ったことなど微塵もないのだが、神話もしくは訓示となる物語の架空の主人公としてイエスを見る人がいるらしい。小学生の頃、毎週水曜日の夕方、近所の家で新約聖書を学んでいた私にとっては、アブラハムやモーゼ、イエスとその弟子たちの足取りをこれからこの目にするという事実と、今まさに汗を垂らしながらエルサレムの街を歩いていることは並列しないのだが、前出の人々はそんな感覚を抱かないだろう。そんな中、まずは腹ごしらえということで、友人に「宇宙一美味しいフンムス」を食べられると事前に勧められたレストランに入る。確かに美味しい。すりつぶしたひよこ豆の甘みにレモンの酸味、若いオリーブオイルの苦味とタイムが絡まり合い独特のコクというかしっかりとした骨格を持って口の中全体に味が広まる。生の玉ねぎと青唐辛子のピクルスをガリっと噛んで強引に口の中をさっぱりとさせ、また次のフンムスを口に運ぶ。並行して運ばれてきたファラフェルをガツガツと食べていくと、次第にエルサレムに居るのだという実感が身体の中から湧き起こってくる。食べ物はこうやっていつも確かな実感を持って私たちの身体とそれに伴う現実感を醒めさせる。


奥が男性手前が女性のスペースに分けられた嘆きの壁

そこから三日間、イスラム/キリスト/アルメニア/ユダヤの四つの教徒地区に分かれた旧市街を歩いて成り立ちを学び、嘆きの壁を訪ね、ユダヤ教の超正統派の人々が暮らすメア・シェアリーム地区へと立ち入り、最後の晩餐からイエスがローマに捕縛されることを決心するゲッセマネそして十字架を背負って歩いたヴィア・ドロローサを通過して処刑されたゴルゴタの丘があった場所にあるという聖墳墓教会を歩き、復活した後に昇天する際右足による最後の一歩が離れたった石の上に建てられたと言われるオリーブ山の昇天教会など、エルサレムの観光資源、いや、遺跡を巡る。聖書の中で繰り広げられる壮大な物語が、現実として目の前に凝縮されて顕れているこの都市の魅力を噛み砕くにはもう少し時間が掛かりそうだ。これまで訪れた場所でも一二を争う濃厚な空間だ。エルサレムの街を代表する描写と言えば、金色のドームを持つムスリムの聖地である岩のドーム。その近くにあるモスクに入ろうとすると、門番が「ここはムスリムしか入れない」と言う。「私は仏教徒だから神を持たない。いや、あらゆる神が自然の一部であり、アラーも自然の一部であるから私はある意味信者だ」と禅問答よろしく言ってみても全く受け入れるつもりはないらしい。何故神がいないのに目耳口手を持つ人間が存在するのか、後でコーラン絶対読めよ、と言われながら会話を進めると、2016年にオーストラリア人観光客が近くのモスクを放火してそこから事務局を通さず許可書を持たない人間は入れなくなった、と言う。本当かどうか知らないが、彼らにとっての宇宙の真理を説いたりイスラム教へと勧誘はするのにモスクには入れないなんて一貫性がないじゃないか、と思う。しかし、毀損しようとする勢力から聖域を守るために外来種を拒絶する方法論をとるのは想像に難くない。そうやって何か事件がある度に私たちの行動範囲は、極端に言えば世界は、狭くなっていく。

この時期はスコットという祝祭が行われているため、道にはスッカと呼ばれる白い布と椰子の葉の屋根で作られた仮庵が至る所で見られる。モーゼに連れられてエジプトを脱したことを祝い、スコットの時期中は食事をそこで済ませるのだという。そんな祭りの雰囲気が充満する街を、超正統派だけでなくユダヤ教を信じる人々がそれらしい格好をして道を闊歩している。しかし耳に飛び込んで来る彼らが話す言語はイディッシュ語でもヘブライ語でもなく英語だ。しかも米国訛り。ニューヨーク出身の友人に似たイントネーションも聞こえてくるし、「オースティンでは、」などと喋っている人もいる。どうやらスコットを祝いにアメリカ各地からエルサレムにやって来ているらしいのだ。よく見ると彼女彼らの多くはカツラを被っている。それが分かると信仰から発する服装とはいえコスプレの一種のように見えてくるから不思議だ。実際に地元エルサレムに住む超正統派とは少し違う態度であるようだが、詳しいことはわからない。ただ、ヘブライ語は神聖な言語であるため日常生活ではイディッシュを用い、パレスチナ人に対して不当な扱いをする現イスラエル政府に対して世俗的に過ぎると批判的で「イスラエル政府は全ての土地をパレスチナに返還するべきだ」と宣う超正統派(ウルトラオーソドックスという響きの方が好みだ)の態度を米国内で貫くのは難しいだろう。だからコスプレに見えるというのもあながち間違いではないのかもしれない。

ベツレヘムに行くのは、12日間という短い旅程内でパレスチナ自治区に唯一滞在できる機会であり、イエスが生まれたという生誕教会があり、更には小学生の時に聞いたベツレヘムのイメージが二千年経過した後にどう様変わりしたか見たかったからだ。公共バスで40分ほど走ってベツレヘムに到着。生誕教会とミルク・グロットを訪ね、帰りは前掲の壁を見に行くことにする。天井のない監獄という形容詞がぴったりの監視塔が見えてきた。近くまで行き、7、8mある高い壁の上にあるその監視塔を下から見上げても中に監視員がいるかは窺い知れない。ミッシェル・フーコーが近代の監視系統を見出したと言われるパノプティコンを想起させる。その高い壁による静かな抑圧と威圧に私とパートナーは自然と無口になり壁沿いを歩き始める。壁に描かれたさまざまなグラフィティを確かめながら。そこにはグラフィティと一緒に、パレスチナの人々の身に起きた許しがたい話が書かれており、読み進めていくと戦争犯罪が記されたコンクリート製の衝立のようにも見えてくる。安部公房の「S・カルマ氏の犯罪」の中にこんな一節がある。「壁はもはや慰めなどではなく、耐えがたい重圧でした。それは人間を守ってくれる自由の壁ではなく、 刑務所から延長された束縛の壁でした。」 刑務所から延長された束縛の壁!まさに、パレスチナの人々の生活の隣にあるのは自由を奪う束縛の壁であり、天井のない刑務所の壁なのだ。壁沿いを歩いていると、少年にマグネットを買ってくれと言われた。見てみると、Banksyのデザインを使用したマグネット。買うことにした。10シェケル。20渡す。そこから更に歩みを進めて徒歩でチェックポイントを超えることにした。チェックポイント近くの道路には、グアバと柘榴を山積みにした屋台や焼き鳥を売る屋台が何台も軒を連ね、クラクションを騒々しく叩くマイクロバスが何台も集まっている。しかしそこからチェックポイントを通過しようとする人はいない。案内もないコンクリート剥き出しの殺風景なチェックポイントの入り口を超えて、2度折り曲がりながら進むと大きな鉄格子が見える。ここでやっと数人を見る。写真を撮りながら監視カメラがあるまっすぐな廊下を300メートルほど進むと、入り口があり警備隊が控えている。「パスポートと滞在許可書を出して。それから今撮った写真はここで削除」。カメラで今までの行動は監視されていたのだ。どこをどう歩いたのだろうと、ベルリンに帰ってきてからグーグルマップで確かめようとすると、私の唯一の才能である鋭敏な方向感覚を持ってしても少し時間がかかる。地図上には、ありもしないバス停が記載されているのに、壁が存在していないのだ。こんな所にもパレスチナの人々の苦しみは無いものにされている。

ベツレヘムとエルサレムを後にして、これまた聖地の一つであるナザレに向かう。バスに乗って向かう場合、エルサレムから真っ直ぐ北へ向かうのではなく一旦少し西に行って整備された高速道路を使って北上する。真っ直ぐ北上する場合は、高速道路ではなく曲がりくねった悪路を行くことになり時間が掛かるらしい。パレスチナ自治区内とイスラエルでは道路にも格差があるのだ。調べていないがおそらく電車も存在しないのではないだろうか。高速道路が途中、1949年に定められたヨルダン川西岸とイスラエルとの境界線「グリーンライン」のすぐ横を走る箇所がある。もちろんそこにもずっと壁が立っている。少し途切れた場所もあるが、とにかく目にしたほとんどの場所は高い壁が張り巡らされている。高速道路の防音壁の役割を果たすかも、と少し擁護するような思考も監視塔を目にするとそんな気はすぐに失せる。現代のベルリンの壁が、アパルトヘイトが、目の前に現実として立ちはだかるのを目にすると、エルサレムやナザレに位置する数多くの歴史ある遺跡を敬いつつこの土地に立つことの奥深い意義のようなものは霧散霧消する。

ナザレの後は、アッコで行われるフリンジシアターフェスティバルに向かう。ユネスコの世界遺産にも指定されている十字軍が築いた要塞の中で行われる多くのストリートパフォーマンスを見るために。日没後暑さも一段落した遺跡の中で繰り広げられる様々なパフォーマンス。老若男女を60分近く飽きさせることなく素晴らしい技を繰り出し続ける一人のクラウンを見ていると、観客の要素も重要なのが分かる。ここでようやっと気づいたのだが、この国はどの街に行っても子供を多く目にする。彼女彼たちを中心にして作られる五月蝿いとも言えるが賑やかな雰囲気が希望みたいなものとして感じられるのは何故だろう。クラウンの誘いに素直に応じる子供たち、期待を裏切る予想もしなかった行動を取ってクラウンと共に笑いを誘い、観客全員で喜ぶ姿は社会の理想の姿の一つだろう。殆ど言葉を発さずに、横で一緒に見ている人々と共に笑いながら目の前で披露される愉快なパフォーマンスを時間を忘れて楽しむためにも、この世界にはもう少し多くのクラウンと子供が必要だ。アッコフェスティバルには数こそ少ないが外国からもパフォーマンスが招待されている。私がチケットを買い求めた時にはその多くが売り切れとなっていたが、2014年にダーイッシュによって行われたイラク北部のシェンゲルという町に住むクルド系住民のヤジディ教徒に対して行われた虐殺を題材にした作品を鑑賞することができた。現地で女性を中心にインタビューして、日常が突然戦場に変わる様、奴隷として兵士としてどのような体験をしてどのように男性たちと関わったかを語り、どのように隣人が死に、精神が崩壊していくかを描くクルドの音楽家による伴奏付きの音楽劇。今から考えると、状況や権力勾配は異なるが、今まさに行われているハマスとイスラエルの戦いによってガザ地区に住むパレスチナの人々の凄惨な苦しみを生み出している構図と似ている。直接的な死に出遭うのはいつも市民だ。そして、宗教や文化の軋轢が戦闘へと転換される時、その薄暗い情念は政治的思惑となって人々の心を蝕み始め、その時戦闘の最前線にいるのは末端の兵士だ。私たち個人個人は、本当に隣人を憎んでその存在を消滅させようとしているのだろうか?他の生物を殺すことをどの宗教が是としているのだろうか?どこかの段階で争いは操作
され始めていないだろうか?私たち力を持たない人間は、いがみ合うのではなく、連帯して権力を持つ少数の人々の思考を変更させなければいけないのかもしれない。それはもしかしたら、地球温暖化に対抗する環境団体や科学者が言い募っているような階級間での闘いとなるのかもしれない。

黒く細い一筆書きの線が空を塗りつぶし続けるような音で目が覚めた。シャバットの土曜日、テルアビブの街はまだ眠りについている。前々日にロンディーウェイが席を確保してくれたバットシェバの作品「MOMO」を鑑賞し、前日にはワークショップという名のミーティングを地中海を望むバットシェバのスタジオで行い、夜はラジオ局兼レストランのTEDER.FMでテルアビブの食に舌鼓を打ち、まだまだ眠気が残る朝。まぁ、安息日の街がどれくらい静かなのか散歩しようと思っていたし、早起きも良いものだ、と窓から見える青い空を見ながら考える。廊下をパタパタと人が足繁く通り過ぎる音がする。それにしても奇妙な長い音が鳴り止む気配は全くない。これは少し様子がおかしい、何かしらのサイレンじゃないかと思い始め、iPadを確かめるとハマスがロケットを打ちはじめた、というブレイキングニュース。これは空襲警報なのだ。隣で寝ているパートナーを起こして空襲が始まった、と伝えても、よく理解はできていない様子。それはそうだろう、人生で初めてロケットが飛ぶ空の下にいるのだから。朝食をとりながら、ニュースを見ていても仕方がないので扉を開けて通り過ぎる人々と話を始める。そこには偶然にもベルリンからやってきたカップル。女性は一年間の留学のためにやってきて、旅行を兼ねて付いてきた男性と共に今日エルサレムへ移動する予定だというが、交通機関を調べてみると大幅に乱れているのが判明したのでテルアビブにもう一泊するという。昨晩到着したばかりのフランス人のカップルは、こんな危険な場所にはいられない、と蜻蛉返りでフランスに戻るという。もう1人はイギリス人。テルアビブ内の次の滞在場所に移動しようと思っていた矢先にサイレンが鳴り始めたのでUberが捕まらないという。彼によると、ハマスがテルアビブに住むアラブの人々に、立ち上がれ、とメッセージを出したために運転手が外に出ないのだろうと言う。私たちも予測不能な事態に備えて、情報を集め始める。空港は閉鎖しているという情報がロンディーウェイから届く。午後に会う約束をしていた人から、残念だけど今日の待ち合わせはキャンセルしましょう、など多くの人からメッセージが届き始める。今テルアビブにいるんじゃない?大丈夫?どんな感じ?大使館に連絡するべき、と。片手じゃ収まらない数の友人が大使館のアイデアを言うので、パートナーが在イスラエル日本大使館のTwitter/Xアカウント発見して見てみると、ヘブライ語で情報を出していることがわかった。全く読めない。電話を掛けてみる。まったく通じない。私はハナから日本政府に関連する機関を信じていないのだが、実際に頼れないと分かるとがっかりはする。在イスラエル日本人には電話などで連絡もあったようだが、今回のような私たち旅行者もいる訳で、危機管理方法は連絡手段の選択肢を増やすことも含めてもっと考えられてもいいのではないか。

攻撃前のカルメル市場

ヤッファ旧市街近くの海岸を歩いていると、警察か兵士かわからないがライフルを抱えて重装備をした三人組が、上から下まで舐めるように私の姿を確認して横を通り過ぎ、人がいない美しい砂浜の左右を確認している。ハマスが海からも侵入するという情報が流れているからだ。頭上では何台ものヘリがガザ方面に向かって飛んでいる。こんな物騒なのに街は空っぽだ。コロナのロックダウンの時のようだ。何人かの人間が外に出ているが、おそらく全裸で歩いても誰も注意しないだろう。アザーンの響きが無人の街にさらに空っぽの印象を与える。暑いのだけは変わらない。開店しているキオスクを見つけて、夕飯のためにパスタとツナのオリーブペーストを購入してアパートメントに戻る。ハマスが夜の21時にテルアビブを総攻撃するというメッセージを発している。あぁ、私はいま戦時中の街にいるのだと今までよりも強く強く感じた。1時間前の20時、サイレンが鳴り始めた。窓を開けて暗くなりはじめた外を観ると、突然反射したオレンジ色の光


Levinsky通りにある公共シェルター入り口

が隣のビルを染める、と同時にズシンという低音が響き、続いて窓のカーテンがふわっと揺れる。鳥たちが一斉に飛び立つ。後で分かったことだが、ハマスの飽和攻撃によりアイアンドームを突破した一発のロケットが近くに落ちたのだ。怪我人が出たらしい。それは私だったかもしれない。そして再び空襲警報。部屋の外に人がいる気配がするのでパートナーが扉を開けて尋ねる。「どこへ行くの?」「地下にシェルターがあるから、すぐに付いてこい」。地上階まで降りると開けっ放しのドアがあり、中へ入ると5人の先客が「どこにいたんだ?ずっと待ってたのに!」と軽口を叩いて迎えてくれる。半地下からさらに下へと続く道があり普段は倉庫として使われているが緊急時はシェルターとして使用していると言う。皆口を揃えて、ミサイルよりはミサイルによって破壊された飛翔体の飛び散りが危ないから窓には近寄らない、シェルターへ入る、という。イスラエル政府が出すミサイルアラートを表示するアプリを教えてくれたのでダウンロードしてみると、デフォルトの警告音が私たちには馴染み深いあの地震アラートのチュインチュインチュインチュインという音ではないか。速攻で変更する。3月11日の記憶が再び私の元にやってきた。

結局その晩の空襲警報は幸運にもそれきりで、錯綜する情報の中、翌日の朝チェックアウトした。ロンディーウェイの家にバッグを置かせてもらい、そのまた翌日の朝早くの飛行機までテルアビブ市内を歩き回ることにした。通常は営業が始まる日曜日だが、まだまだシャッターを閉めたままの店が多く見える中、開いているお店に入ってはイスラエル人と話す。多くの人と話す中で、Levinsky通りにある公共シェルター入り口ハマスのことをtheyと言い、特定するような話し方をしないことに気がついた。ニュースでは数時間ごとにイスラエル軍が報告する死者数がどんどんと増えていっていた。特にガザ近くで開催されていた参加者3000~5000人と言われるレイヴパーティー会場からの数字が時間を経過するにつれて悲惨になっていくのに、全体像が把握できないので、誰もが不安を感じていた。そこでも
“They attacked a lot of civilians who might be me or…”などと誰かを明示しない。イスラエルとパレスチナに関する歴史的な込み入った話になってもtheyを使うので、文脈を理解していないとどちらのことを言っているのか判定しずらくなる。おそらく、彼らはイスラエル側ハマス側いずれの行動にも何らかの瑕疵があると考えており、その思いが無意識に、いや意識的に彼らに代名詞を使用させているのではないだろうか。代名詞を用いることによってこれまでの絡まりきった歴史的文化的背景から少し距離をおき、今目の前で起きている残酷な現実を止めるためにお互いを思いやり共感することから始めるための技術として。ただしそこでは、オスロ合意以降、イスラエルが、ハマスも、本当に真伨に日々壁の向こう側で暮らす抑圧された・抑圧する人々に向かい合ってきたのか、という質問が生まれるのだが。しかしこの質問も無責任に過ぎない。

私たちが搭乗するEl Al以外の航空会社のフライトは殆どがキャンセルされていた。私たちが空港到着寸前にはベン・グリオン空港に向けて100発以上のロケットが発射されたので仕方がない。では何故El Alだけ飛ぶのか?飛ぶどころかこの緊急事態に増便までしている。調べてみると、テルアビブ発の飛行機には各国に戻る民間人を搭乗させ、テルアビブへと戻る際には予備役軍人を乗せて帰ってくるらしい。そのおかげでベルリンに戻ることが出来たのだが、もしLCCでイスラエルに渡航していたら私たちは未だにテルアビブに居たのだろう。そう、あの場所にいる人々はmight be me、私かもしれないのだ。最後に、今回の旅の初に見た時には身に迫らなかったが今は痛切に望んでいる、冒頭に紹介したエルサレムにある宇宙一美味しいフンムスを出すレストランの机に書かれていた言葉で締めくくろう。

一刻も早く戦闘が止むことを祈る。心から祈る。

古谷充康

振付家、ダンサー、パフォーマンスアーティスト
舞踏技術と実践を基盤にして、必要性、可能性、偶発性を包含する動きの語彙を開発して表現することを試みている。身体や物体が重力にどのように適応しているか、またその均衡を破るために空間にこれらの事物を配置することに興味を持っている。日本大学芸術学部で演劇演技を学び、HZT BerlinにてSolo/Dance/Authorship (MA SoDA).を修了。

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