生ノ態【コト】

モノをめぐる思考と試行 04

生活の呼吸


2022/03/23

続けていること
水曜日の朝は、写真撮影を行う。もう3年ぐらいになるが、欠かさず毎週続けている。なんとなく見ることの延長として写真に収めることをはじめた。私の住む地域では水曜日が、容器包装プラスチックの回収の日で、1週間分の家庭内で不要となったスチロールのトレイや食品のパッケージなどプラスチック品を一つの半透明の袋にまとめて回収場所に出す。数年前からその量が気になっていた。月曜日に回収の燃やすごみの量は、10リットルの袋に入れて捨てられる程度の量である。それに比べて、容器包装プラスチックは30リットルの袋、その形状や固さから体積がかさむので単純な比較にはならないものの、毎週こんな量が出るのは、何か変だと感じていた。初めは、問題解決的な視点でこの体積をどうにか減らし、邪魔にならないゴミ箱はできないのかと思ったが、実際に圧縮の機構などを考え始めると出口は遠く断念した。また、体積を減らしたからといって、根本的な問題とは無関係で無意味とも思えた。必要以上に生じる家の外に持ち出さなくてはならないプラスチックをまずは、つぶさに観て取ることこそが第一歩と感じてはいた。


2021/08/11

3年前、2020年6月中頃の水曜日の朝。スマートフォンのカメラで数枚の写真を何気なく撮った。玄関に置かれた袋の全体とクローズアップの写真、そしてスケールの上に置き重量を測った。914gと表示された写真が残っている。4人家族、1週間に生じる量として多いのか少ないのかわからない。洗い流した時に残る多少の水分も含まれるので、全てがプラスチックの重量ではないのだが、1kg弱のプラスチックが毎週この家を通過してゆく。いろいろな物質がこの家に持ち込まれ、吐き出されてゆく。プラスチックと同様に雑誌やダンボールなど紙類は土曜日に家から持ち出されるが毎週大量に出るものではない。水道のように管を通って流れ込み、使われて下水へと放出されて行くものもある。また電気やガスなどは電線とか管を伝って持ち込まれ一つの家の中で光や熱、運動に変換され消える。吸い込み吐き出す、一つの流れと変換のモデルを頭の中に描く。家は、外界から仕切られ一つの単位として物質を摂取、蓄積、排出、言い換えるならばある種の代謝をしている。何を取り込み、何を留め、何を排出しているのかよく見る必要がある。


2021/02/03

「ごみ」と臆見
一般的に家は消費の場なのであるが、私のように自宅を仕事場としている者にとっては、生産の場所でもある。消費し排出するだけではなく、作り出すことで有形無形に関わらず何ものかを生じさせている。排出と生産はどのように異なるのかわからない。例えば、作品を作ることは、生産であるのか、排出であるのか判断に困る。作者の意志を制作というアクションを通して自分の外部に排出することとも言える。また人間の生活に必ずしも役立つかどうかわからぬものを作り出すことは、生産と言い難く排出でも良い気がしてくるし、逆に容器包装プラスチックを毎週出すこと、つまり再資源化できる有用な素材を手間をかけて選り分け袋に綺麗にまとめて家の外に出すことは生産に限りなく近い。気になる言葉はその度に開かなくてはならない。箱に詰め込まれ中身も知らず使っている日常の言葉には、多くの臆見が紛れ込んでいる。箱詰めされた言葉は、世の中で伝え合うためには便利だが、現実の事物の振る舞いと一致させるためには意識的に開く必要がある。


2022/02/02

「ごみ」という言葉は、好きではない。独断的にモノに対して不要、無価値と決めつけるような暴力性を感じる。モノの要不要、価値の有無は、揺らいでいるし、見る人、状況に依存する。ある人にとって不要なものでも、別の人にとっては求めているものかもしれない。価値についても流動的で断定は不可能と思っている。そのような物質的な実在に対して「ごみ」と決めつけることは好まない。とはいえ、家の外に持ち出すということは、内部蓄積させて置くことのできないものということになる。 蓄積できる量の問題でもあるが、保存して内部に置いておくものとの違いは何なのか。自己の興味の移ろいと価値の流動性のため、一般的には「ごみ」のように見えるものでも、 収集し集め溜め込んでしまう。 私は、モノが捨てられない性質である。それは確かだが、同時に多くのモノを捨て去ってもいる。いつ役に立つかわからないモノまで含めて、価値あるモノと感じていても、それらすべてを手元に置いておくことはできない。量的に全部を保存できない場合、その一部を標本として採って置くこともある。その標本は物質であるだけではなく、そのモノに対する「見方」の標本でもある。物質としての実在は全方位に可能性を開いているから、「見方」という私の意識がそのモノに対してどのように振る舞ったのかの痕跡、観照の跡形を重ね合わせて、方向と奥行きを持たせたかたちで保管したいという想いがある。同様に写真は、現物を省き意識に生じた好奇心の震えを眼差しとしてモノと自分とのあわいに残す方法と考えている。


2022/05/18

身近で遠くにあるモノ
容器包装プラスチックは、資源である前にプラスチックである。プラスチックは、身近な素材であり、同時にとても遠くにある素材でもある。多分、毎日手に触れ、肌に触れている素材であるにも関わらず、変幻自在に形を変え姿を変え、柔らかくも固くも、透明にもなるので、とらえどころがない。森に育ち伐採され製材され製品に加工されて手元まで届く木製品のように一連の過程を想像することは難しく、石油から造られたものと言われてもピンと来ない。巨大なプラントを必要とする重厚長大な設備産業の最たるもので、一人の人間のスケールとは全く異次元のものであるように思える。長年、日用品をデザインする者としてプラスチックを用いた製品のデザインを手掛けてきても、未だなおその「遠さ」は消えることはない。「遠さ」の正体は何なのだろうか。感覚的に「遠さ」と表現したが、そもそも「遠近」とは何であるかもまた問いたくなる。物理的に測ることのできる「遠さ」については、迷うことなく空間的な隔たりとして比較的明快に説明がつくが、ここでいう「遠さ」は、そのようなものではない。「遠近」とは、視覚的な遠近感と触知的な遠近感がある。また移動と関係する身体的な遠近もある。いくら遠くに移動できたとしても主体から遠いものは残る。少し思考の近道をして、「遠さ」とは、手で触れて確かめることができない範囲のものと言い換えてみても良い。例えば、紙は子供の頃から折り紙や工作等で手で触れ馴染んできたこともあり、親近感が湧く素材であることは確かだ。それに対してプラスチックはどうだろうか。紙ほどの身近さではないが、プラスチックにも触れているはずだ。日々の暮らしの中で、菓子の袋を開け、惣菜の容器を開け、余った食材に薄い膜をかけ、ペットボトルの蓋をひねっている。紙以上に触れている機会は多いのかも知れない。それでも、その素材感は触知しきれず「親しみ」と「近さ」にならない。それは、プラスチックの持つ変容性のためと思われる。常に化けていて本当の姿がないからだと言えそうだ。当然、他の要因もあるが多様な姿の総称としてのプラスチックと個々の触知している素材感の経験が一対一で結びつかないためと推測する。「お化け」なだけで、決して遠いものではない。


2022/11/09

興味の遷移
写真を撮り続けているとモノとの距離は縮まる。3年近く続けていると、興味の持ち方も微妙に変化してくるのがわかる。初めの段階では、捨てられてゆくプラスチックの色と形、硬さや透明度の多様さ、素材の違いやパッケージの印刷内容などの織りなす不思議な質感に感動しシャッターを押していた。半透明の大きめの袋に詰め込まれて一つになりつつも、中のスチロールトレイの角で出っ張ったり、袋の結び目で引っ張られて作られる襞。でこぼこな表面と皺と襞、結び目、よく見れば見るほどその魅力は増す。見逃されているもの何気ないものに対しても眼差しを差し向けることで奇妙なほどにその輪郭は際立ち生き生きと見えてくる。同時にそのようなものに対することに嬉しさを感じている。それはこの生活世界への信頼感とでも言えるものである。多種多様な思惑によって生じた商品が消費され容器包装は抜け殻となって残り、一つの袋に集合し妙な密度感が顕れる。一つ一つの容器包装は商品から剥ぎ取られ、中身が取り出され、殻となって袋に集合して来る。その所作の触感的記憶も一つの袋に詰め込まれていると想像してみる。その想像は、その物質的な存在を身体に近づけてくれるように思える。


2022/02/23

一年を過ぎると習慣化し、何の苦も無く撮影をできるようになるが、驚きは減衰してゆく、撮りためた写真の数は増え、プラスチックの姿だけではなく、玄関の風景が毎回違うことに気づく。冬は朝食前後の時間でも玄関は薄暗い。なるべくライトをつけずに自然に差し込む光で撮ることを心がけているが、思い通りに取れない日もある。季節によって天候によって明暗の差、光の色味の違いがある。それだけではない。脱ぎ捨てられた靴、広げられ干されている傘、バッグや紙袋、その時々で家の外から持ち込まれ、家の外に出されようとしているモノたちが様々な光の質で映り込んでいる。最近は、容器包装プラスチックの写真というより、人の出入り、モノの出入りする玄関のあり様を定点観測しているような気分でもある。


2021/09/153

目的のさまよい
袋に詰め込まれたこのプラスチックの集合は玄関でこの家から送り出されることを待っている。この家の中での物質としては役目を終えているのだが、その被写体は写真という創作物を生み出している。そこには、別の価値の生成がある。価値という必要もないかもしれない。価値と呼ぶことの違和感、なんとなくしっくりこない感覚があるのは確かだ。それらは、愉しみと呼ぶべきかもしれない。写真を撮ることにはっきりとした目的などない。不思議なことに目的はなくとも、愉しみは生じる。目的のない行いに喜びを見いだせぬ者は不自由である。目的は遠く離れた的、その的があるおかげで今ここにある、足元にあって手の届く場所にある多くのモノを見えないものにしてしまう。目的は弱く、限りなく近くにある方が良い。その様なことの方が、自由度が高く、生き物としての力を保持できるように思える。何を目指すのかで異なるが、ただ生き生きと生きたいならば、この方法に限る。大事なのは、成果を得ることではなく、行なっていることなのだから。行なっていること自体で十分満足であり、それ以外は、副次的なものとして有り難く受け取るぐらいで良いと私は思う。


2021/09/29

日々、淡い目的の実験を続けている。だが、その実験は、何かを証明するためのものではないので試行と言うべきだ。その試行は何によって駆動しているのかはわからない。その理由がわからなくとも前に進む事ができるし、その理由は、理由を必要としない程に根元的なことの様にも思える。何の期待も強制もない自由端の行いに純粋に悦びを感じる。取るに足らないもの、軽視されているもの、意識の外にあるものを迎え入れること、外部を内側に招き入れることが悦びや愉しみを日常から汲み上げるとき、大切な事だと実感している。その時、目的や客観的な意味や価値は意識的に無視し、その場と時の手触りを信じそれに従う。理由や目的を一度括弧に入れ、価値や意味の断定を停止する。その心地よさを手に入れたら愉しみは増大する。価値そのものを探し求めることより、事物との出会い方、対し方自体が問われている。物質的な循環も差し迫った課題として対処しなくてはならないことは明白ではあるが、この生きられている世界をしなやかに帆走し、気流に乗って滑空するためには精神の柔軟さを保つ必要があるようだ。まさにプラスチックのように。


2021/10/06

2023年5月   三浦秀彦

三浦秀彦

1966年岩手県宮古市生まれ。1990年代より地平線や地形、大気をテーマに身体性やインタラクションを意識したインスタレーションの制作と発表を続ける。ヤマハ株式会社デザイン研究所勤務後、1997年渡英、ロイヤル・カレッジ オブ アート(RCA) ID&Furniture(MA)コースでロン・アラッドやアンソニー・ダンに学ぶ。2000年クラウドデザイン設立 。 プロダクト、家具、空間、インタラクション等のデザインの実践と実験を行い、 日常の中にある創造性や意識、モノと場と身体の関わりについて思考している。

三浦秀彦ウェブサイト