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モノをめぐる思考と試行 06 - ヒトと多様性 NUN [ヌン]
生ノ態【コト】

モノをめぐる思考と試行 06

本のつくる地形

始まりの本
大きな本だった。銀色または黄色のイメージが思い浮かぶが表紙が何色だったかはっきりは覚えていない。布張りのハードカバーで満月、半月、三日月など月のかたちの型押しがあったと思う。その布張りの表紙の感触は、はっきりと頭の中で再生できる。だがそれは本当の記憶なのか、後から勝手に付け加えられたものなのか分からない。毎晩、母がその本の物語を読み聞かせしてくれた。内容は断片的にしか、いやほとんど覚えていない。船でいくつかの島を渡ってゆくようなお話、それ以外にもあったはずなのだが、何一つ覚えていない。基本的に私は、物語の筋を覚えていない。漠然とした印象や個々のシーンの断片などが頭に浮かぶのみで、ストーリーを問われると答えることが出来ない。そのようなことが小説でも映画でもよくある。人に粗筋を解説するなど最も不得意なことの一つである。出来事の連なり、成り行き、物語には、生まれつき興味がないのかもしれない。

物語と声
それは音でしかなかった。物語は、耳と時間の中でよく響く。音でも声でも聴くことは心地よい。そのような距離感を持った空間と時の感触を好む。だから物語そのものに興味がないのではなく、それを記憶することに意味を見出していないか、時間的な前後関係を俯瞰して記憶することに劣っていることが原因と推測される。常に現在に浸っているせいで、すぐに前後の出来事は意識の中から霧散し失われてしまう。この傾向も影響しているかもしれない。でも本当の理由はわからない。
耳に届く物語は、言葉という遠方にある手の届かないものを声という質を持った肌触りとして触れられる距離まで近く寄せてくれる。声は音。音は、物理的には大気の振動であり、聴覚受容器の中でその振動に触れることで音を感じることになる。遠くから届く音でも感じ取っているのはここにある身体であり、その振動に直接触れているのだ。遠くにある言葉を声が近いものにする。声は個人に属し固有のもので一つ一つの顔をもつ。言葉の意味を発した者との対をなし、切り離すことはできない。その意味で声に託された言葉は、発したそばから消えてゆく儚いものではあるが、身体の延長と呼べるものでもある。だから意味を超えた次元の質が宿る。

本の距離
モノとしての本は、声とは別の経路で言葉を私のそばに近づけてくれる。正確に言えば言葉自体ではないかもしれない。窓越しに遠くの山並みを眺めるように、窓が風景を室内空間に借景し取り込むように。手で触れることのできない風景をフレームで生け取り、部屋の一部として内部へ引き込む。窓の働きのように、物質性を伴った本は、意味するものを捕獲し、引き寄せ、手の届く所まで近づけてくれる。だが、まだ言葉は遠くにある。紙の質感を手で確認しながら符号化された文字列を読み取る。これは、実際的に身体に光という物理刺激として届く視覚的知覚と平行にある記号的な知覚系と言える。文字の意味する遠い世界を身近なところにコラージュする。その遠近は矛盾しながら距離の倒錯が生じる。限りなく遠くにある言葉は記号に姿を変え、確実にいま手の中にあり、そして所有することが可能になる。その結び目が本という物質なのだ。

本を読む必要がなかった頃
父も兄もよく本を読んだ。私は違った。大学生になるまで本は数えるほどしか読まなかった。家には大きな本棚があり多くの本が並んでいたが、その本を手に取ることもなく、その内容についても興味を持たなかった。小さい頃から言葉を使うことに抵抗があったし、特に字を読むこと、書くことは苦痛に思えた。そして文字も意味も間違って読みとっていることが多かった。それは今も変わらない。
そもそも、子供の頃、本を読む必要はなかったのだと思う。野山と海岸、港を駆け巡り、仲間たちと毎日あそぶことしかなかったし、それで十分だった。それが、最良のコンテンツであり体感的な知識だった。それ以上に鮮やかで現実的な事柄はなく、本の中に記録された文字列の集合は面倒なものとして意味を持たない霞んだものとして見えていたに違いない。だが、手に取る事のなかった本棚の本や知的なものに対して憧れはあったのだと思う。自分から遠いものであるからこそ感じる未知なるもの。その憧れは後になって放流されることになる。

耳を澄ますような手触り
今となっては、山野を駆け巡ったあの自由さで本を読んでいる。ある意味手当たり次第、気の向くまま、読みたいという衝動に従い、何のために読むのか、その様な目的など必要ではない。読書もまた、子供の時のように遊びまわることと大きな差はない。仮に目的を設定するならば、自分が「自由」になるためと言えるかもしれないが、そのために本を求めているわけではない。遊ぶことと同様に読むこと自体が目的化していて、その時の感触を得たいだけなのかもしれない。静まり返った部屋の中で、本の内部に集中する。早朝に多いのだが、その耳を澄ますような感触に心地よさを感じている。その心地よさは、どこから来るのか。単純な理由ではないし説明もできないが、ただ旅先の街を一人で歩くときのような、遠方の地で出会う壮大な風景に向き合うときのような、自分に纏わりつく何かから開放される想いが底流にあることは確かである。

自分を壊すための読書
本に限らず知的な活動は、自分を壊し更新させるために必要なものと位置付けている。だから知識として溜め込み、思考を安定させ防御するためのものとは正反対の性質のものだ。読んでも読んでも何かが太く力強く賢くなるわけではない。逆に未知の考え方に触れることは、見晴らしの良い頂きに登った時のような、清々しさはあるものの、同時に戸惑い、不安を感じ、不安定で揺らいだ思考を促すこともある。そのように不安定にし揺るがす事が読書の意義であり、それをどのように落ち着くところへ落ち着けるかが、個性となる。それが読むことの最終的な作用と考える。だから、読むという時点においては、その字面通りを学ぼうとはせず、ただ単純に思考や物語などに触れ、浮き立ち普段とは違った気持ちで、その視座から浮かび上がる世界を眺めたいと思っている。

引っ越しと本
本は符号化された世界の象徴でもあるが、同時に物質的存在でもある。そのモノとしての側面を思い知らされる機会として、引っ越しというイベントがある。本を読む時、あまりその重さは気にならないが、運搬のためダンボール箱にぎっしりと詰め込むと簡単には動かすことが出来ないほど重くなる。軽やかなイメージと裏腹に紙という物質がこんなに重いのかと実感する。比重が気になったので文庫本を数冊重ね重量と体積を測ってみる。比重は0.83と計算で出た。水に比べて少々軽いが、木材で言うなら針葉樹の杉や檜の2倍重く、広葉樹の中でも重たい樫と同じぐらいである。これだけ重たいものをあえて所有し続けるには、意志が必要だ。昔であれば電子的書籍の選択肢はなかったから、意志を持つ必要もなかった。代わりのものでその目的が代替できる状況が整い、あえて物質を所有することの意味は改めて問われ始めている。
引っ越しは、自分に属しているモノの全てを自ら顕在化させ再確認した上で、強制的に全て運ぶ行為である。物量にもよるがとても骨の折れるイベントであり、モノとの関わりを考える上で良い機会である。引っ越しの目的は、住むところを変えることである。引越しの目的をモノを運ぶことという人は、まずいない。しかし、事実行なっている行為自体をありのままに言うなら、モノの移動を強制的に行うということである。目的は事物の全体像に死角を作る。本も読むだけならば電子書籍で良い。それが目的であるから間違いではないが、知らず知らずのうちに死角にあるものは切り捨てられている。普段から目的のスポットライトの光量を抑え、中心のないコントラストの弱いぼんやりとした像を愉しむことを心がけている。断定を停止しているような虚ろな像に対している時、そこにはない何物かが飛来するかもしれない。そのようなことを待ち望んでいる。

本の空気感
見回すとデスクの上にも下にも本がある。本棚に収まっているものもあるが、手近にあるものはただ積み上がっている。読み終えたもの、まだ一文字も読んでいないもの、少し読んで放置しているもの、それぞれだが、すべての本は表紙や背表紙からメッセージを放っている。そのメッセージは、文字という記号を含んでいるので、他の単なる物質性が放つメッセージとは少し異なり、より明白に意味を放出している。それらは、日常の空間にある他のモノ達と同じように私を取り巻くひと繋がりの眺めを作り上げている。無意識的に作り上げられたその情景は、場で過ごす人の意識に作用し行動に影響を与える。その行動の結果は、またその場の情景と状況を作る。そして次の周期の循環をもたらし、フィードバックが生じる。自己が主体的に関われる空間の面白さと魅力は、この再帰性にある。本の作る風景が次の本や興味を誘い、私の構えを前意識的に整えている。そこでは最小限の意志だけで、出来事を駆動させることができる。求めていることが意識的ではなく偶発的に起きる。行為そのものに意識を向けると、行為が不自然にぎこちなく変質するが、活動の土台となる環境側に意識を払い改変することは、行為自体に影響を与えず自然な均衡を保つことができる。

「良いもの」をつくる困難さ
創作において最も難しい問題は、「良いもの」を作り出そうという意識が、直接「良い成果」を産まないということだ。つまり努力の度合いが直線的に結果とは結びつかない。確かに、部分的には努力によって作品の密度や精度が上がることは認められるが、その部分は厳密にいうと創造とは言えない部分に相当する。それらは単に改良や改善に過ぎず、その核にある方針や基準を得ることとは異なる。つまり創造の核とは、良し悪しの基準自体を組み替えることであると私は考えている。だから「良いもの」の評価基準が揺るがない分野においては、当てはまらないかもしれないが、良いとはなにか、評価基準自体を問う者にとっては、このやりようのなさは、常に必然的につきまとう困難さである。
この困難さを前提に良い結果を産むためには、何に力点を置くべきなのかと問う時、真っ先に思い当たるのが環境である。直接、意識に求めるものを投げかけ努力するのではなく、活動の基盤として前意識的にある環境を整えることに注力する。行為は、環境との創発であることは疑えない。その経路をたどることで、意識は中立的な状態を保ち、予想外の結果を得る確率を高めることができる。その構えができたらあとは待つしかない。

「風景」から「地形」へ
本の織りなす環境も例外ではない。個々の本はその周囲に固有の気配を纏い、並べられ、積み上げられながら、その気配の混交が生じる。同時に本という個々の意味が連結され、モンタージュされてゆく。それは、なにか目的を持って意図的に組み上げられたものではなく、本の扱い方の痕跡でしかない。だが、単に恣意的に無関係に集められたものと同義ではない。数限りなくある本の中から選び出され、その本を購入し所有する。それら特別なものが、意識を超えたところで極適当に並び、積みあげられ、風景に織り込まれる。ずっと昔に読んだ本が読みかけの本と今届いて開いてもいない本が積み上がっている。すでにそこには、揺れ動き拡張する私の読書体験というひと連なりの大きな本の影が見え隠れする。
また、それは本以外の生活空間を充填しているモノたちとともに風景という連続性の中に埋蔵される。その働きと物質性、符号化された記号表現とが等しい重みづけで混じり合う姿を私は好むし、そのような中に自分がいることも愉しい。目的をもたずその中で生きていることは彷徨いであるが、不安はない。逆に予定調和的な結びつきから解放された清々しさと、偶発的な事物と出会うことへの期待すら感じられる。
その有り様を「風景」と呼ぶ時、違和感を感じている。ごく個人的なしっくりこない感触ではあるが、何か大事なことが隠されているように思えてならない。あえて「風景」ではなく「地形」と呼んだほうが実体に近い。「風景」が指し示す眺めという中心を持たないひと連なりの姿であることは認めつつも、その表層ではなくその背後に形作られている骨格の部分を見落としたくはない。外部に開放され偶発的な結びつきを生じさせているもの、その基盤という意味を込めるならば、顕在的な意識の一層下にある心的な「地形」と呼ぶことのほうが良い。

求められる空疎と開口
本が好きかと問われたら、好きだとは答えないだろう。本そのもの、つまり物質として存在する本を好むか、読書という行為自体を好むかは、微妙に異なるのではあるが、どちらにしても、手放しに好むとは答えられそうにない。でも、日々触れていて数は増える一方で、身の回りを取り囲んでいて、なくてはならない特別なものであることは確かだ。好き嫌いを超えているとしか答えることが出来ない。そう考えると、言葉として答えられる意識の上での好みという感覚は当てにならない基準だと思えてくる。また、本というモノや読書という行為を背景から切り離し単独に問われても、答えようがないことも分かる。本や読書に限らず、すべての事物は常に関係性の網目の中にあって、特定の時空として現れる唯一のバランスであるから、それ以上は問うことはできない。とはいえ、本という窓は実質的にこの生活世界に符号化されたもう一つ別の世界への開口となっている。それらは、日常に空けられた空隙であること、物理的には有限な体積しか持たないとしても、無限に近い連なりの入り口であり、様々な知的な層をつなぎ合わせる結節点である。その結び目は、空疎であり輝いている。言葉の指し示すものは、遠くにあり空と感じる。そこには文字列だけがあり何もない。その窓のフレームとパースペクティヴを用いて自らの眺めを得るしかない。そしてその空疎を実体化し血肉化するのは、自らの体感でしかない。
本の「地形」は氷結し硬直しがちな思考を解きほぐしてくれる。それは、個々の本でも、読書という経験でもなく、それらすべてを含みこんだ「地形」である。そのためには、物質としてある本の存在が不可欠と感じている。ある種の野生と物質性は深いところで結びつく。野山や海岸を駆け巡っていた頃の体感は、その中で蘇るのだ。

2023年12月   三浦秀彦

三浦秀彦

1966年岩手県宮古市生まれ。1990年代より地平線や地形、大気をテーマに身体性やインタラクションを意識したインスタレーションの制作と発表を続ける。ヤマハ株式会社デザイン研究所勤務後、1997年渡英、ロイヤル・カレッジ オブ アート(RCA) ID&Furniture(MA)コースでロン・アラッドやアンソニー・ダンに学ぶ。2000年クラウドデザイン設立 。 プロダクト、家具、空間、インタラクション等のデザインの実践と実験を行い、 日常の中にある創造性や意識、モノと場と身体の関わりについて思考している。

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