生ノ態【コト】

家とHOMEのはなし

ふりかえり

家ってなんだ

数年前に横浜にある築70年の古民家スペース「たけのま」をベースに仕事や企画で過ごす機会があった。
昭和のよき頃の佇まいが色濃く残る家。1Fは床間のある広い居間と台所。2Fは長廊下をはさんで両側に部屋のある昭和のなつかしいアパートのつくり。歩くたびに床や階段は軋み、遠慮なくすき間風が入り込む。雨風の音がダイレクトに音を立てる。雨戸の開け閉めはギシギシ主張する。
しかし、ここに人が集まれば軋みや隙間風はほどよいノイズとなり賑わう。いろんな情報交換が続き、やがて企画にも発展する。キッチンからはいい音と香りが誘い笑いが途絶えない。オーナーの見立てによる古道具/アンティーク品が家中各所に絶妙に位置にレイアウトされてあり家全体がギャラリーでもある。それぞれの部屋がアートスペースになりワークショップが行われ、子どもの遊び場にもなる。時には野菜市として近所の人たちで賑わう。

家って何なんだろう?

生家でもない。長く一人暮らしした家でもない。いま現在家族と暮らす家でもない。
家のようで家ではない。かといってギャラリーやアートスペースでもない。
日常でありながら時間が止まったような非日常感。未完であるからこその風通しのよさと可能性。
世界が終わっても、ひょっとしたらここだけは残ってるんじゃないかと。

ヒトのいろんな感覚を部屋ごとに展示/体験する企画をやりたい。
そんな時、「さいごの家」という名前が浮かんだ。

横須賀の静かなアジトへ

約1年が経過した頃、アースケイプ代表 風景司 団塚さんの横須賀の自宅兼アトリエIKUSAに向かっていた。
5年前に家の改修がはじまった頃から毎年春になると庭に見事に咲く桜の花を楽しむ花見に参加させてもらっていたが、久々に訪れたIKUSAはいつものように静寂とともに凛としていた。自然の移ろいや光と影の微細な変化を感じる空間はオーナーである団塚さんの思いや性格と一層なじんでいる気がした。

128段の階段をのぼって現れるバラック風の佇まい。しかし玄関の低い敷居を一礼するようにくぐると、この家の本当の主人目高(メダカ)池が現れ、次に、ぶち抜かれた高い天井と部屋の敷居は取り払われた空間がひろがる。空間の仕切りは井草と竹。中心に囲炉裏。左側に進むと3000年の神代杉テーブル。風情のある茶室。街を見下ろす眺望の間。備長炭が敷き詰められた大きな正方形の漆黒の風呂からは外の竹林の岩肌がダイレクトに散見できる。一方反対の右側に進むと、おごそかな神棚の間と可憐な梅、桜見の間。いたるところが自然物で見立てられていいる。家全体で外装材が使われていない。よって雨風が屋根やトタンに遠慮なくぶつかり木々が大きく揺れ、嫌がおうにも自然の力を感じさせられる。どこまでが内側でどこからが外なのか…。

不時泊との同期

ふと、おもむろに、「さいごの家」について話を切り出すと、団塚さんが地元大分を中心に進めている「不時泊」というプロジェクトの話とちょうどリンクした。不時泊は「空泊の家」「漂泊の家」「碇泊の家」「結泊の家」「叢の家」の5つの家で展開されるアートプロジェクト。
不便であることをあえて楽しむこと、自然との贅沢な時間を過ごすこと、一期一会を最大限楽しむことが共通したコンセプト。

偶然にも家と家がつながった。
その日のうちにIKUSAが企画の会場となった。

世界を感知する装置としての家

何をして家と成すのかという点に、そもそも興味があった。
家と自然・街を隔てているものはなにか。それは壁や屋根の存在。
境界をつくることで内と外という概念がうまれる。

母親の胎内から出てきた瞬間にもうひとつの世界の存在を知る赤子のように、境界があることで家(内)と外が分かれる。自分ではない他者への意識が芽生え、やがて、内と外の両方を観察する客観という視点もうまれる。内の世界を守るために外に対し鋭敏になり、より知ろうとする。
よって境界がどんな存在か、何をして境界とするかが大事である。境界の設定と距離感次第で家という概念と空間は変化する。
このような境界があるからこそ発生するものの捉え方や意識、感覚に興味があった。

境界があることで成立する家という空間。その設定次第で内と外の関係性は有機的にもなるし断絶もする。
境界をつくらず渾然一体とした空間でシェアできる感覚もあるが、一線を画しているからこそ、客観的な視点でお互いを理解し最適な距離感を調整できる。内と外の関係性の自由度を上げることは、それぞれの環境の改善にもつながる。

世界を感知する装置としての家。
内と外の関係性を調整し、互いをよりよくするための仕掛け。

動物や虫の巣穴

もともとの人間の家はどんなものだったか。横穴、竪穴、藁・竹・土・石、木の上、地形や気候、食習慣によってさまざまだ。
つくりがシンプルで素材が素朴であるほどに内と外の区別があいまいで外部環境の影響を受けやすい。セキュリティも弱い。しかしその分、自然への感度も知覚能力も高まる。1個人や1家族の住まいにとどまらず農業やものづくり等のパブリックスペースとしての利用も多かったと思われる。

しかし文明が進化するほどに家は安全や快適さを求めて耐久度や強度を上げてきた。内と外の区別は明確。デザインやレイアウトにも工夫を凝らすことで精神的なゆとりや安心感ももたらしてきた。セキュリティも強固だ。家の使い方もより個的な利用となり、他の家や街等の外部に対しては原則クローズドなので、お互いを知るためには、電話やインターネット等間接的な通信や別のスペースでのコミュニケーションや必要となる。

一方、動物がつくる巣や穴の構造は、ほぼ災害や天敵への対策優先である。
どんな地形と気候で食べ物は確保できるのか。敵は誰でどんな時に襲ってくるか。より多くの子孫を残せる方法は、、。
人間からすると、緻密で構造と複雑なデザインがほどこされた動物や虫の巣穴には驚かされることも多い。しかし彼らにとっての巣作りは、DNAによって受け継がれたあらゆる智恵を集中させた種の保存のためのいのちがけのプロセスである。親は天敵に襲われないような最大限の工夫を凝らし1匹でも多くの子孫が次世代に残せるようにしっかりと快適な巣をつくる。そのためには住む環境への繊細なリサーチと情報交換による強いセキュリティ能力と食べ物確保が重要だ。

動物にとっては巣は本能の赴くままにひたむきに没入した結果の家であり作品でしかない。ところが、面白いデザインにしてあっといわせようとは微塵も思ってないのに、人間側から見ると動物の巣のつくりは驚くほどの意外性や多様性と創造性にあふれているように見える点が妙味。はたして虫や動物側から人間の家はどう見えているのか?

あれも家、これも家。

叢の家を知ること

本題に戻る。企画を進めるうえでは、なるべくIKUSAという家で過ごしたいと思った。

真冬のポッドキャスト収録にはじまり、春の恒例の花見には何度も訪れ見事に咲きほこる桜を通じて春の時間を堪能。初夏から梅雨にかけて家を囲む木々や雑草がこれでもかとぐんぐん生育。いろんな生き物もざわめいた。夏はむせかえるような記録的猛暑と蝉の哭き声。訪れる度に入れ替わる環境。季節でだいぶ印象の変わる空間であることを肌で理解した。

IKUSAの特徴は大きく2つ
・団塚さんと建築家によって長い時間をかけてデザインされた完成度の高い空間であること
・自然の力と季節感をダイレクトに感じる場所であること

この最大の特徴が我々にとってはハードルであった。

クリアすべき課題は明らかだった。

ー デザイン意図を本質的に理解しより実感をもって伝わる仕掛けを講じること
ー 自然の力への実感や印象をいい形で活かすこと。ただしそれに負けないアイディアとバイタリティをもって臨むこと

意図と意図がぶつかりマイナスの効果を生むことは避けるべき。しかし理解したつもりになったり迎合しすぎると伝えたいことも伝わらない。この考えはやがてイベント準備が進めば進むほどに、その場にあるものや今しかないものを活かす柔軟でゆるやかなスタンスに変化していった。

HOMeという概念

実は企画を進める初期段階で足かせとなったのが自分で持ち込んだ企画名「さいごの家」。
前述の通り、自分の私的体験と発想からうまれたものであったのと、”さいご”という言葉から受け取るネガティブな印象は、万人にすんなり受け入れられるものではなかったことだ。

自分でもいろんな視点から企画名を探っていた折り、ともに企画を進めるパートナーから提案があったのがHOMEという言葉。
当初この名前には逆に私のほうがややピンと来なかった。理由はスポーツの分野やWEBサイトでもHOMEという言葉は日常にあり過ぎていて一般的と感じたからだ。
しかし、長い歴史をさかのぼり地球規模な視点でHOMEを捉えた時に、宇宙=地球=民族=国=故郷=街=家=家族=自分 と連鎖し、普遍性をもった意義あるワードとして、すんなり自分の中に入ってきて思考を書き換えた。

HOMEは地球でもあり故郷でもあり自分のからだでもあるかもしれない。物質ではなく、自分が拠り所とする記憶や体験、知識などの無形物であるかもしれない。HOME=戻る場所、拠り所….。さらに今回の企画のもととなるシリーズ名は「ヒトの条件展」。人間=HOMO SAPIENS の多様性にフォーカスする企画だったよな。HOMOとHOME。人と家。

ついには、「HOMe さいごの家」という企画名に落ち着いた。

3つの家プログラム
HOMEは、個々の出自や生い立ちだけでなく、生きるプロセスでの経験や印象とともにあるもの。
よって家の企画でまず大切なのは、個々の家の記憶にしっかり向き合うためのトリガーをいかに設計するかであり、NUNの活動をともに歩んできたゲストや関係者にとっての「HOME」「家」にひもづく感覚や表現とともに、いかに多層的な家としてつくっていけるか。
この土台の部分だけしっかりすれば、あとはIKUSAの空間とどのような化学反応を起こすかだけだと思った。極力つくり過ぎず、ゲストや来場者の感覚で面白く変化する場として設計すること。

これらのことを大切にして進める中で見えてきたのが以下3つの方向性である。

1. 「家と気配」 インスタレーションと作品展示
ゲストがIKUSAの空間から発想する作品やインスタレーションをレジデンス制作や、ゲストとNUNとのコラボレーション制作。期間中会場各所に常設展示。

◼️展示作品/インスタレーション:
黄色い部屋、繭の間、nest/振動、サウンドスケープ 呼吸する家、水想、箱庭、木の家、Where’s your HOME?、Dance、針金の家、ダンボールハウス、巣巣、水たまり、穴、など

2.  「家と対話」 日替わり火の番 と関連企画
囲炉裏は家の営みの中心。対話が生まれる場所。会場の中心にある囲炉裏でゲスト陣が日替わりで火の番を担当。火の番の担当の日には、様々なワークショップや講座、ライブ等、関連企画が実施された。それぞれが持参した焼き物を起点に連日色々なストーリーやモノの交流が生まれた。

◼️日替わり企画
家との対話〜「鳩尾の話」、からだと家のワークショップ、深く聴くための天然対話、石の交換、黄色いもの交換、心地よさを探すボディワーク、シナリオ制作「カンヅメを火にくべる」、蚕の糸繰り体験、ホロスコープセッション「家との記憶を星から紐解く」、万物食カフェ、弱音ライブ、布展示とワイン付き朗読会

◼️囲炉裏に持ち込まれたモノ
巨大しいたけ、鹿肉の燻製、干し芋、海苔、お香、餅、豚肉ブロック、バナナ、銀杏、干し柿、せんべい、おにぎり、おしるこ、雑種な魚介類の干物、琥珀、魚肉ソーセージ、マシュマロ、等

3. 「家と記憶」 それぞれの家アンケート
HOMEや家をめぐるイメージ・記憶・体験は、人によっていかに多様なのか。参加ゲスト24名に事前にアンケート回答をお願いし結果をイベントウェブサイトに掲載。来場者にも会場で同じような手書きのアンケートを実施。現在、家zineを計画中。

以上が3つのイベントプログラムと、それらにひもづくラインナップ。
ひとつのイベント企画でこれだけの多様なワードが飛び出すとは…。並んだ作品名や企画名だが、単なる文字列だけでも面白い。毎日コンテンツだけでなく頭と体の入れ替えは実際大変ではあったが入れ替え過ぎたからこそ見えてくる世界と体験できない時間がそこにあった。

イベント開催中、家の境界が融和し溶け込んでいった。
家という空間がひろがり自由度が増した。

Where’s your HOME?

今回来場者に実施したアンケートは以下5項目

Q1 あなたのHOME はどこですか
Q2 あなたにとってのHOME はどんな場所ですか
Q3 HOME のことを想うときまず何を思い起こしますか
Q4 HOME にはどんな景色、あるいはどんなものが見えますか
Q5 今 住( 棲) んでみたい家、場所はありますか

HOMEを家ととらえる人とらえない人、家をHOMEととらえる人とらえない人、その解釈は自由だ。
しかしQ1でHOMEをどう解釈するかで、続く4問の解釈と回答の方向性は変わる。

例えば、過去に住んだことのある固有の家や街をHOMEと捉えた人は残りの回答が比較的早く具体的だ。アンケート回答者の数名は、書いてるうちに昔の家や街、家族との記憶を強く思い出したようだ。来場者それぞれがどう自分の記憶と向き合えるかを重要な要素としていたわれわれ企画側にとっては、やり甲斐を感じる嬉しいコメントだった。

一方、HOMEが音や光や色や記憶など抽象的な概念であったり、まだ見ぬ風景や形態や理想の場所であったりする場合、アンケートへの回答は答えにくくなかなか進まないようだった。しかし何もアンケートに正確に答えることが目的ではない。アンケートを通じて自分と向き合うことが大事だ。よってこの時間はまったく無駄ではなく。自分の拠り所がどこにあるのかを考えるきっかけであり、イベントへの参加自体がある種の縁起を生んだといえる。

私の場合、ここHOMEだよなと感じる場所が、いくつかないわけではなかった。しかし、時間が経過するほどにHOMEは特定の場所ではなくないように思えてきた。
これまでの人生の大切な局面で悩んで選んだ決断のすべてであり、それらが積み重なることで築かれた今ある環境や仲間、家族そして自分自身がHOMEなんじゃないかと。何かにぶつかってへこんだ時「戻る場所」であり「拠り所」となる存在。
これも「HOME」や「家」と向き合いつづけたからこそ変化し、腑に落ちた結果なのかもしれない。

さまざまな過ごし方

9日間の会期中は、とにかく連日遠方まで多くのお客様にご来場頂いた。
建築物としてのIKUSAの成り立ちや構造、デザインに興味をもつ人もいれば、ギャラリーとしてインスタレーションや展示作品に関心のある人、火の番が企画する企画参加を目的する人、色々だ。そして、この企画の場合、面白かったのは普通の美術館やギャラリーにはない、家ならではの人それぞれの過ごし方が散見できたこと。

囲炉裏や神代杉のテーブルには自然に人が集まり、焼いたり食べ飲みしながら対話がうまれる。ぼおっともの思いにふけりたい人は足湯や書斎に向かう。箱庭で街をつくり砂に描いて遊ぶ。持ってきた石や黄色いものを交換する。繭の美しさに見惚れる。黄色いベッドに横たわる。神棚と梅の木に手を合わせる。アンケートを書く。気分転換に家の周りを散策する。家の主人メダカたちの泳ぎに癒される。帰りは玄関で我々に見送られる。

総じていつのまにか長く時間滞在していたようだった。いわゆる美術館やホワイトボックスのギャラリーとの違いだ。多くは時間の経過とともに、くつろぎ、語り、リラックスしているように見えた。アンケートに「HOMEはここ(IKUSA)だ」という回答さえあった。

家の然るべき場所で然るべきことが起こるのだなという点にあらためて気づく。
企画が始まる前は凛として隙を見せないIKUSAだったが、IKUSAも家の子。
当たり前に家だった。

はじまりの家
企画前のミッションに戻ってみる。

ー デザイン意図を本質的に理解しより実感をもって伝わる仕掛けを講じること
ー 自然の力への実感や印象をいい形で活かすこと。ただしそれに負けないアイディアとバイタリティをもって臨むこと

デザイン意図を理解できたとは、おこがましくて言えないが、何度も128段を登って下って荷物を搬入搬出し、ゲストの内見に立ち会い、雑草や虫と格闘し、竹を刈り燃やしたり寝泊まりしたり、長く過ごし体感する時間そのものがIKUSAを五感で知ることにつながったとは思うし、その感覚と知識が展示インスタレーションや企画に反映された実感はある。

インスタレーションや展示の素材としては、水・氷・土・落ち葉・竹・藁・巣・砂・花・抜け殻などを積極的に取り込んだ。とりわけIKUSA周辺にある植物や石、巣などの等の素材をインスタレーションに活用した。季節とともに変化する自然。時間の経過とともに変化する変化する作品。

日替わり火の番ゲストの感覚とバイタリティがそのまま、その日の家の表情と空気感を演出する結果となった。内容的に合うかどうか懸念される企画であってもIKUSAの空間は不思議な包容力をもって受け入れてしまう。なんせ、会場内にポップな布が張り巡らされる朗読がシャウトされる企画であれ、野外に掘られた1.5m四方の巨大な穴であれ、自分の場所の魅力に転換してしまったのだ。

IKUSAは決して完璧ではなくもっと奥が深かった。
何回過ごしても新しい発見があるIKUSA。わからないことだらけで、もっと知りたくなる懐の深さ。
ここも未完であるからこそポテンシャルの高い空間だった。

ついには、IKUSAがHOMEになった。
はじめから、こういう時間を過ごしたかったのだと心から思った。
しかしながら、IKUSAはどこにでも存在しうるように思える。

次なる HOMe さいごの家 はどこか…? 
HOMEと家はつづく。

photo by Toshifumi Tsuyama, Ai Takahashi and NUN

2024.01   report by Giga Oikawa

HOMe さいごの家

横須賀の高台にひっそりと佇む叢泊の家 IKUSAで開催された「人と家」をキーワードとした企画展/イベント。風景司 団塚栄喜が構想した閑静な空間で、インスタレーション・作品・言葉などを通じ、
家をめぐる多種多様な感覚や記憶を共有。

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