渡邊忠
超える
渡邊忠はパフォーマンスをする。
そして同じことを二度とやらない。
マテリアルをふんだんに使って展開するパフォーマンスは概ね静かにはじまり気づいたときにはみるみるうちに空間が変化して知らない景色が立ち現れている。
その行為はつねにパフォーマンスとはなにかアートとはなにか?
もっといえばリアルとはなにか?存在とはなにか?という問いをオーディエンスに突きつけてくる。
空間は最終的にぐちゃぐちゃに散らかることがおおい。
清濁のみこみぐちゃぐちゃにしながら(なりながら)転がっていく様、
その連続する愚直な行為の内に美しさが立ち現れる瞬間がある。
一切の生産的意味のない純粋行為に向うその立ち振舞は時に優雅でエレガントですらある。長い間行為ということに向き合い実践し続けて来た肉体が持つ説得力とでも言うのだろうか。
そこには半端な美意識や解釈、安易な評価や批評を挟み込む隙がない。インスタレーション、展示と表現の手法を変えながら空間をつくりそこで行われるパフォーマンスはアートの核心に触れながらもアートから離れていくような開放感がある。
渡邊忠(と田中照幸、内藤正記)のパフォーマンスを初めて観たときの感想を一言であらわすと「痛快なる無意味の祝祭」となる。こんなことをやる人が今の時代に居るのかという印象が強く残った。個人的にはコロナ禍で閉塞していた感情や観念が一気に吹き飛ばされたような快感もあった。
その後 長野のお寺で開催された展示に伺い、話をする機会を得て交流が始まり、後に茅野美術館イベントスペースでのパフォーマンスフェスティヴァル、安曇野豊科美術館での個展内で企画されたワークショップなど行動をともにする機会が増えた。
お陰で2023年は随分と楽しい年になった。
会うたびにに表現に関することを語り合う間柄になってからもまだ一年ちょっと、、
今回は改めてポッドキャストで対話をする機会が持てました。
うまくなることを拒み安全牌で勝負をするなと自分に問い続けているという渡邉さん。
表現することにおいて美術やアート界というヒエラルキーにおもねることがなく脇目もふらずやりたいことを追求するために前に進む勢いが圧倒的で、その姿勢は徹底してブレないのでまったく爽快なのである。
「スレスレのところをやりたい」
「境界線に立てるかっていうところが結構重要」
「ビギナーで居続けることが一番難しい」
「うまくいくはずがないところをどうやってジタバタしてやるか」
と、 「場」に立ち続ける人ならではの意識と志向性を感じる発言が続きます。
飾ったり難しい言葉を使うことなく核心的なことを話します。
今回のインタヴューでは雑談的に活動をかいつまんで取り上げて聞いています。
写真などイメージで見ると、ともすると激しさが際立って見える渡邊さんですが実際はよく笑う気さくな人で少年のように純粋なエネルギーの持ち主だということを感じてもらえるかもしれません。数ある過去のパフォーマンスの話はどれを聞いても呆れるくらい面白いものばかりですが、今回初めてきいた話でびっくりしたのはギャラリー全面をアスファルトで覆ったという展示の話。
実現力が半端ない。群を抜いてキャパシティがデカい(笑)
そしてニパフで初めてパフォーマンスアートに触れた後すぐに自分のイベントを企画する速度。自分が行為する場を作りそれを他者に対しても開放し新しい体験を作り出すファンデイション自体を創造するということが渡邉さんの活動のワイドさを表している。
場を作る。空間を変える。
そこで自分の思いついたことやってみたいことを実行する。
そして毎回自分のキャパを拡げて少しずつでも自分を越えていく。
言葉にするとシンプルですが人間が持っている本能や根源的行動の本質に通じていて、しかしそれを実際に体現することは容易ではないということも痛感させられます。
正に「言うとやるとは大違い」なのです。
それでも渡邉さんはこどものようにはつらつとしたエナジーでケラケラ笑いながらキラキラした瞳でそれを実行するのです。
50数年生きてきて四半世紀表現の場に関わってきましたが、出会わなかったタイプの表現者です。
あんなに短時間で派手にめちゃくちゃ散らかす人をみたことが有りません(笑)
あんなにちらかしてそれを片付ける覚悟は有るかといわれればはっきりいって自分にはありません。
同時にあれだけの純粋性を保ち続けている人もみたことが有りません。
さらに渡邊さんは(これは付き合い始めてわかったことですが)他人を許容する力、懐の深さを感じさせてくれる人間でもあります。
それは自分の表現が許容される場を自ら開拓し続けてきたからなんでしょうか。
なにかしらタガが外れているというか桁外れな感覚はどこからくる性質なのか、、それは未だに深い謎です。
安曇野豊科美術館で開催された最新の個展でも主体の不在というタイトルがついていましたが本人が度々口にするemptyというキーワードについて今回聞くことができませんでした。創作の軸となるempty(からっぽ)という概念については改めて聞く機会を是非設けたいと思います。
とにかく今後もさらに開かれた表現の場を実現させるために画策している渡邉さんの活動に刮目せよと言いたいのです。挑み続ける現存表現を是非体験していただきたい。
客観的に見ると非生産的行為でしかない無意味の祝祭のような純粋行為はオーディエンスの感覚体験として記憶され内部で何かを変容させたり、他人のタブーの概念が少しずつ解放されていくような効果があるような気がします。
生きていること現象の祭りであり儀式でもある。
彼のパフォーマンスや展示に触れる機会があればまず一度は観てみることをオススメいたします。
そして盟友である田中照幸さんの存在も大きいと改めて話を聞いて思いました。
この二人は太陽と月のような強力な相関関係。
田中さんのインスタレーション・パフォーマンスも想像を超えて来ます。
渡邊忠がいる。田中照幸がいる。
自分などはそれだけでこの時代も捨てたもんじゃないなんて思えちゃうわけです。
かれらの作品、パフォーマンスを同時代に生まれたものとして体験しない手はないとおもうわけです。
個人的には渡邊忠と出会いそこから繋がる人に出会い、動きに関われていることは大きく喜ばしい出来事です。
by H
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NUN podcast #22
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ゲスト:渡邊忠
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2023.12.28 パフォーマンス3夜目 本番直前収録
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