26:45からの見え方 05
ー 2026年2月、ベルリン ー
結婚した。
友人にも結婚しましたメールや葉書などを出すタイミングについて、唐突にならないように(世界の現象の全てが唐突に始まるように見えるものだけど)考えて考えて結局は連絡できずという結果になっているのに、おおよその公的空間であるこんなところで宣言とも受け取れる文字を入力するのは躊躇する。躊躇している。いや、もう冒頭に書いたのだから、していた、か。プロポーズはしていない。そもそもその言葉の意味がよくわからないので調べてみた。Wikipediaの英語版によれば、「西洋文化ではプロポーザルは伝統的には男性から女性にするもので云々」とあり、あの片膝をつく姿勢はGenuflectionと言って、元々は目上の人への深い敬意を示すものだったらしい。一つ知識が増えた。折角だからと、そんなに長いページでもないので読み終えて、ドイツ語では何て説明してるのかしらん、と見てみると、プロポーズのドイツ語版は見当たらない。探してみると、日本語版で言う「婚約」、もう一つ英語版の「Wedding customs bycountry」にHeiratsantragという単語を見つけた。Heirat=婚姻、antrag=申請/提案。antragはビザ申請する時などに使う単語だ。さすがドイツ。心的な契約よりも法的契約。ロマンティシズムよりもリアリズム、というよりプラクティカリティー。そりゃ、料理が味覚よりも栄養重視になるのも当然か。「結婚は紙上の契約問題だから、税金クラス変えて税金安くしない?」なんていうのが結婚の入り口だという話も頷ける。プロポーズの意味を理解したかって?いまだによくわからない。

テンペルホフでの凧揚げ。文章とは全く関係なし!
たちには希望する結婚の形態があった。双方の姓を変更せず、今のままの姓を保持したい。い
わゆる選択的夫婦別姓というやつだ。
ご存知の通り現在の日本法では不可能なので、ドイツ法で婚姻することにした。日本弁護士連合会のウェブサイトによれば「法制審議会は、1991年1月以来、民法改正について審議を重ね、1996年2月、選択的夫婦別姓制導入と非嫡出子の相続分差別を撤廃する等を内容とする『民法の一部を改正する法律案要綱』を答申した。」とある。続けて「しかし、この答申に基づく民法改正案は、いまだ国会に上程されていない。」と書かれている。そう、国会に提出されていないのだ。
審議開始から30年以上が経過した今も、自民党の一部議員たちは審議を阻止し続け、2025年に再び審議が開かれる段になって各党が独自案を出す流れになっても、自民党は「党内をまとめられない」という理由で案すら出さなかった。
支援を必要とする人や苦境に喘ぐ人の意見を集約もしない、議論もしないって国民の代理人としての仕事を放棄しているのに等しい。ただのクソである。基本的職務は担わず、国の品格や行末を憂うなどと小賢しい言葉を弄して利益誘導にのみ励む姿は職務怠慢などという言葉で済ませられるものではない。多くの人々が長年あんな愚鈍なクズどもに貴重な票を託していることに、選挙の度に驚かされる。
選択的夫婦別姓だけではない、同性婚にしたってそうだ。
同性カップルには「税金クラス変えて税金安くしない?」という便益が受けられず、相続権もなく、医療現場での同意など法的な権利が保障されていない。その状況を変えようと何十名もの人々が、同性婚を認めない戸籍法は法の下の平等や個人の尊厳を認めている憲法に反しているとして5つの地方の高等裁判所(東京は2024年と2025年の2回)に訴え、東京2次以外で違憲判決が出ている。近々最高裁判所で最終判断が出るようだが、裁判を粘り強く続けるために相当な努力を積み重ねている人々のことなど、政治屋は歯牙にも掛けないだろうし、おそらく行政の長である内閣は司法を無視するだろう。
伝統を守らなければならないと嘯く国会議員が、希望を持ちながら人生を歩んでいる人間を前にして、伝統を改良する余地を見出さない。そんな人間に未来を託せるわけがない。そんな人間に投票して、私たちは私たちのかけがえのない仲間を守れるはずがない。個人の権利や尊厳やそれを基調とする社会を国が保護しないとすれば、誰が担えるのか。私たちは連帯せねばならない。自分や家族友人など限られた周囲だけを守ることは、最終的には不可能である。権力はとてつもない力を持っているのだから。
因みに衆議院選挙がある度に、今回こそは選択的夫婦別姓制度が前進するのではないかと待っていたのだけれど、もう愛想が尽きた。今後は詐欺師ほどの能力もないただただ嘘を塗り重ねる高市率いる自民党と維新の会、もしくは新しく連立を組む可能性がある政党が進めようとしている「通称使用の拡大と法制化」という本末転倒な制度により、10年単位で選択的夫婦別姓の施行は遅れるだろう。矛盾した制度なので社会問題になることは目に見えているのに。この問題だけで何文字も書ける。
と言う事でドイツ法での婚姻という選択をしたのだが、それ以外の方法も調べた。ドイツはご存知のようにとても官僚的な国で、何をするにも様々な書類が必要になる。在留許可書のために何十枚の紙束を印刷しなければならなかったか思い出すだけで笑えてくる。そこで多くの人が選択するのがドイツ国外での婚姻手続きだ。よく聞くのはデンマーク。現地に赴かなければいけないが即日成立する。詳しく聞かなかったけれどパスポートを持っていけばできるらしい。友人が何人も行っている。全員ドイツと他の国というカップル。ドイツ人でも避けたい面倒な手続きだということがここでも理解できる。しかし私たちは断念した。
次の選択肢がオンラインでの婚姻届。友人から教えてもらったのがユタ州のオンライン結婚。法的拘束力を有する発行された書類を基に税金の控除やパスポートの変更も可能。ただ、知っている限りここで結婚したカップルの二組ともが一人はアメリカ国籍。もしかしたらアメリカ国籍限定なのかもしれないので、メールで聞いてみようか?などと考えていたら、何が起こったのかよく覚えていないけれど、えーい、ままよ、ドイツでやったれ、となった。
しかし、その意味するところは、最低な二つの官僚国家ドイツと日本での書類集め。これがもう本当に面倒臭い。

2026年1月の中旬、強い太陽嵐でベルリンでもオーロラ!というので夜中出掛けて撮った。肉眼だとぼんやり明るい程度だった。
ここで選択的夫婦別姓に関連して小さな議論が起こった。婚姻要件具備証明書という書類を取得
しようとした時のことだ。
パートナーの戸籍がある静岡のある地方役場に電話を掛けて「婚姻要件具備証明書を取得したい」と言うと、こう返された。
「何故必要なのですか?現地の大使館で婚姻届を出せばこの書類は必要ないはずですが」
「それがドイツ法で婚姻するのでその書類が必要なのです」
「それは何故ですか?」
「日本法では夫婦同姓にしなければいけないからです」
「そうですか、その理由では書類発行は難しいですね」
は?この役人は何を言っているのだろう?
「本来は書類を発行する理由をあなたに言う必要はありません。それは仕事場で有給休暇を取る際に理由を言わなくてもいいのと一緒です。だけど私はあなたに伝えました。しかも、理由を言ってそれが適切ではないから書類を発行しないとはどういう意味合いを持つかあなたは理解し
ていますか?」すかさずそう述べると、「わかりました。日本の法律で照会します。別姓を維持したいという理由で発行できるかどうか
確認しますのでしばらくお待ちください。折り返しでお電話します」と言うではないか。
これを読まれている人はもうすでに理解していると思うが、姓の選択は婚姻の成立要件ではない。そもそも婚姻要件具備証明というのは、申請者が日本の戸籍法上で重婚とか婚姻年齢に達していないとかいう婚姻の阻害要件がないことを示すためのもの。言い変えれば、この要件具備証明というのは婚姻が成立する要件を満たしているので結婚という「入り口」に立てます、という証明をする文書であり、結婚後に生じる様々な法的効果、例えば扶養とか相続とか税や保険の扱いとか、それこそ今回の主要議題である姓とか、入り口を「通過した後」のことはそれぞれ個人が対処することであるはずだ。
折り返し電話が来た。
「証明書発行を停止する法律はありませんが、日本法では同姓しかできませんので、日本人同士で結婚をされるのでしたらもう一度日本法での婚姻を考えられてはいかがでしょうか?」
「同姓を選択したくないのでドイツ法を選んだので、日本法ではしません。でも何故そんなに同姓を推されるのですか?」
「将来子供を持たれることを考えますと。。。」
「私たちが子供を持てないカップルかもしれませんよね?あなたはそういう提案されることをどう考えますか?それに個人的なことなのであなたの干渉は全く必要ありません」
「ただ。。。」
言うに事欠いて子供のために同姓がよい、なんて良く言えるものだ。別姓制度を批判するための論理としてよく見る文章を自分の耳で聞けるとは感動である。そんな感動を胸に抱き会話を進めていくと、子供の姓を選択する場合に問題が起きやすいのでそれを避けるための提案として言っ
たまでです、と宣い始めた。
何を言っているのか?現日本法は強制的夫婦同姓なのだから、子供の姓の選択で問題なんて過去に起きているはずがない。外国人と日本人カップルでの婚姻では別姓は可能だが(なのに日本人同士だとできない。ここも議論のポイントである)、今まで子供の姓で揉めたなんて寡聞にして聞いた事がない。離婚後の両親の駆け引きだとかで億分の一の確率でそういう事態が起こったとしても、別姓を望むカップルが結婚する場面に対応する議論ではないし、いわんや国に何の問題があるというのだろう?ましてや書類を発行しない理由になり得ないことは明白だ。
婚姻に必要な書類を発行する地方の役人が、ありもしない規則を念頭において書類を発行しないと市民に伝えるのは異常事態であり、妄想に囚われた戯言である。原理主義的な政治屋がはびこり、その思考に汚染されている明白な証左だと思う。「鯛は頭から腐る」を地で行くエピソードであり、もしかしたら日本は官僚主義的なんて思っていた私は間違っていたのかもしれない。人治的社会なのではないだろうか。ドイツよりはコネの強さにそんなに拘らなくてもいい社会だとはいえ、権力を持つ人間の言葉に左右される度合いは日本の方が大きいかもしれない、と思わされる出来事だ。

2025年12月のウィーンのあるクリスマスマーケットで。手前左側の自転車ともう2台で動かすメリーゴーラウンド。料金払ってペダルを踏んで風景をぶん回す仕様。
結局3ヶ月かけて全ての書類を集めて、居住している地区の戸籍役場に提出すると、式を挙げたい?と聞かれた。
ドイツの役場で戸籍課(というのだろうか?)の役人が「10何年交際してやっと結ばれる二人が~」から始まり、結婚してもすぐ別れるんじゃないぞ、みたいなことを一通り読み上げて誓いの言葉を述べる、あの儀式をやる?と聞いているのだ。面白そうじゃないか。やります、と言い、何だかんだあって予約が更に1ヶ月先となることが決まり、12月の中旬に式を挙げた。2025年12月のウィーンのあるクリスマスマーケットで。手前左側の自転
車ともう2台で動かすメリーゴーラウンド。料金払ってペダルを踏んで風景をぶん回す仕様。書類を集め始めてから4ヶ月が経っていた。
式の最中に流れる音楽は自分で用意するということで、ノイズ、ヒップホップ、エクスペリメンタル、クンビア、ハードコアが入り混じったミックスを作り、パートナーの両親ともう一人の参加者を連れて、寒いけれど珍しくもくっきりと晴れた空の下、家から歩いて役場に出向いた。
儀式は教会ではなく役場の3階にある、20人も座れば満室になるさっぱりとした感じの部屋で行われた。神父でも牧師でもなくメールをやり取りした戸籍課の職員が、「結婚することを誓いますか?」「はい」という段取りを15分くらいで進めて終える。ともすればあっけなく感じられるものだが、言葉を口に出し誓いを述べることで結婚が成立し、その日の日付で結婚証明書も作成されるという、「はい」という一つの言葉が現実を規定する、特に公的な力を持つことにいたく感心した。
これはまさにJ.L.オースティンが『言語と行為』の中で示している、行為遂行的文ないし行為遂行的発言(performative sentenceもしくはperformative utterance)そのものである。オースティンが言うには、単に「文」と呼ばれる陳述文は、疑問文、感嘆文、命令文などとともに使用
されるが、彼が提唱した行為遂行的文は、単に何ごとかを言うだけではなく、なんらかの発言を行うことがとりもなおさず何らかの行為を遂行することになるという。「はい」と言うことで当事者として結婚という事象に参与する、ということである。
オースティンはそういった効力を持つ文をなぜperformativeという語を選択したか説明する中で、contractual=契約的やdeclaratory=宣言的な意味も含まれると説明している。今回の文章の冒頭に書いた「結婚した」を「宣言」と私が書いたのもあながち間違っていないのだ。そりゃ
躊躇するはずだ。
この行為遂行的発言の説明にはもちろん続きがある。行為遂行的発言は、言葉だけで完結するのではなく、身体的であったり精神的であったり、もしくは言葉が発される状況なども付属して考えなければならず、それらと並行して実施されなければならない、とも記されている。ジュディス・バトラーの『Gender Trouble』で語られるperformativityも、私にはその延長線上にあるように思える。言葉と所作が、いつの間にか私たちの輪郭を決めてしまう。
そうか、私は人生の中でこのパフォーマンスイベントを、膨大な書類に含まれる署名、日付、番号などと共にやり遂げたのか、などという感慨に短い間浸った。
この行為遂行的発言を夫婦の姓の選択に関する議論に適用すると、夫婦同姓の強制性がどれだけ奇妙な論理で成り立っているかがわかる。
数多くある「私」と言う自己を規定する要素の中でも重要なものの一つである名前は、言葉で組み立てられている。その姓を発する時、私たちは家族の繋がりや歴史を少なからず意識するものであり、変更を強要されることは言語による行為の遂行と同時に行われるはずの付属的行為の発露、大袈裟に言えば自己存在の顕在を抑えるものである、と考えられる。私のケースで言えば、古谷という言葉を行為遂行的に発する機会があれば、意識上にのぼるかのぼらないかくらいではあるが家族との関係や京都の田舎の風景が醸し出されるはずで、それは精神的な拠り所となるものである。もし、姓を能動的にではなく強制性を持って変更させられれば、それら古谷の心象風景の立ち上がりの欠損が生じ、当の古谷という姓を通じた行為遂行を実施する余地がないことを意味する。私が私自身であることが少しぼけてしまうに違いない。それは、時間を超越して伝わってきた家族姓と私という自己が現代で統合する機会を奪う可能性があるということであり、保守を自称する人々が望んでいる美しい伝統に依拠する瞬間を奪い去ることになりはしないか。

2025年11月の舞台装置のプロトタイプ。本番はこのエアベッドの下にアクチュエーターを設置して、ベッドの上に置いた石たちを落とすために上下させた。
そうそう、結婚を決断した理由を言ってなかった。それは、上に書いた「もう一人の参加者」が大きなきっかけである。
赤ん坊だ。
彼の姓を決める際に、再び法律と対峙するのは、もう少し後のことだ。

古谷充康
振付家、ダンサー、パフォーマンスアーティスト
舞踏技術と実践を基盤にして、必要性、可能性、偶発性を包含する動きの語彙を開発して表現することを試みている。身体や物体が重力にどのように適応しているか、またその均衡を破るために空間にこれらの事物を配置することに興味を持っている。日本大学芸術学部で演劇演技を学び、HZT BerlinにてSolo/Dance/Authorship (MA SoDA).を修了。