生ノ態【コト】

モノをめぐる思考と試行 03

分解と破壊を通して

分解者として
子どもの頃から分解することが好きだった。物心ついた頃から事あるごとに分解を繰り返してきた。時計、オルゴール、ラジオ、おもちゃ、などなど。多くの場合、分解は修理とは異なり、もともと機能していた全体が個々の部品に解体され機能が失われる過程である。ただ十分な機能があり働いている状態で分解に取り掛かることはまずない。修理によって直る可能性がないものや、場所を占有し処分に困ったものが分解の対象となるのだ。機能を失い、そのかたちや大きさ、姿を変えることである。この点においては、破壊と非常に近い行為であり共通の味わいを享受しているように思える。


 ガスレンジを分解して取り出した部分

今でも多くのものを分解している。 壊れて動かなくなった 家電や日用品、 コンピューター周辺機器や音響機器など、 そのまま廃棄しても良いのだがついつい分解してしまう。素材ごとに分別して廃棄できたり、体積を減らすという実質的なメリットはあるものの、その労力を考えると割に合わず、好きだからこそできることなのだと感じている。
先日もガスレンジを分解した。驚くほど多くの部品数で電子機器とは全く違った頑丈さでたいへん手こずった。取扱いに注意を要するガスという気体を確実に制御する性質上、全てが確実に接合され、耐久性のある素材、熱を発する機器であることから耐熱性の素材が用いられ、加工も熱を考慮したものになっている。鉄、アルミ、亜鉛ダイキャスト、真鍮などの金属が中心で、部分的にではあるがプラスチックも使われている。直接炎と接している部分はセラミック製の部品もある。かと思えば電子制御であるから電子基盤が熱を避けるように端の方に取り付けられ、配線も数々の部品の間をすり抜けている。


 ガスレンジを分解して取り出したセラミックの部品

読み物としての分解
決して、分解をその機能性やプロダクトの構成の理解のために行っているのではない。もっと複雑な欲動、ある種の衝動によって駆動されていると言って良い。当然のことではあるが、正しく機能し働いているということの確認は、分解せずとも可能だが、その働きがどのように生み出され、保たれるように工夫されているかは、外装を外し、部品を一つ一つ解くことから徐々に見えてくるものである。分解しながらどのような中身であるのか、どのような部品が使われているのか、設計的な工夫を知り驚いたりする。それは、ある種の書物であり読み解くべき奥深い対象である。書物のようにページを順に追うわけではなく、前もって設定された直線的なシークエンスを辿るわけでもない。物的な実在を通して書き手(作り手)の意図を逸脱した読み解きも可能だ。一つのプロダクトに埋蔵された設計者の工夫や意思を受け止め、ものに刻まれた痕跡から製造過程や経済的な理由を想像するもの楽しいのだが、物質的な有り様から感じられる質感、形状、働きなどを全体から部分に分けてゆく過程で顕にし「勝手に」読み味わってゆくことに私は面白みを感じている。書物に例えたがもう少し正確に言うならば、言葉と意味が一対一で対応していない、読み手が深く関わり解釈し、心的投影によって語の意味すらも変わってくる「詩」を読んでいるようなものなのかも知れない。逆に言うならば、「詩」は分解の快楽を帯びているとも言えるだろう。


 ガスレンジを分解して取り出したセラミックの部品

部分と全体。もう一度可能性に戻す。
隠れたところに意外な発見があったり、全体から切り離されることで新鮮に見えるものがある。外装が外され それまで隠されていた内部が露呈する。視覚的に見えない影にあるものが明るみに出ること、各部品を分離することでそれまでの関係性が動的に顕になる。 機能的にあるべき場所から外され働きを失ったモノたちは新たに意味を持つ前の姿に還元されていく。全体に対する「部分としての品」から役割を解かれる。あるものは素材に戻り、あるものは 別の価値として見えてくる。分解の過程を分解すると「顕になり」、「分かれ」、「別のものになる」という3つの段階になるだろう。


 DVDプレーヤーの板金加工された部品

全体に対して、それぞれの部分はまたその内部に機能的な構成を持っていて、入れ子的な構造を成している場合もある。家具のように部材から成立しつつも各部材が比較的同質なものと、電子部品のようにコンポーネント化し個々の部品に特定の機能が備わっているものだと構造の違いはあるだろうが、各部分が全体の形相に対して役割を果たしつつも、自立した存在となりうる可能性を持っている。そして自立と働きは密接に対応している。その単位が自立しているとき、ある働きを持っているか、または可能性を持っているかの意味である。しかし、ある単位が働きや可能性を全く持っていないという状況は考えられない。であるならば分解によって単位が生じること、つまり全体から部分が切り離されることで、新たな働きと可能性が生じると言える。水のように均質なもので形の定まらないものが、全体から部分に切り出されても、別の新たな働きは生じない。そのような場合は、分解ではなく、分離と呼ぶべきだろう。分解が全体性を失わせ、個別な働きと可能性を生じさせる。前もって個別の部分に働きの備わった部品を全体から分離させることもあるが、まずは分解し、その後にそこに単体としてある、全体の文脈から分離したそのもの自体の働きや有り様を発見してゆく。分解する者はその生成の瞬間に立ち会っている興奮を感じている。それは、産み落とされるというより、全体という大地から発掘されるような顕れ方である。


プリンターの板金加工された部品

分解された各部分をより細かなサイズに粉砕してゆくと元の機能は失われ、素材的な可能性のみとなってゆく。微細な粒子になることで、物理的な形状としての働きは限定されるが、粒子として均質な様相になることで他の物質と複合しやすくなるなど、別の特性が発現し生じる。それはすでに機械的な意味での分解を超えているかもしれないが、分解の「別のものになる」ことの一つの姿であり、複合から単体へ再素材化され振り出しに戻る循環のモデルを想起させ、生態系における物質の流転ともつながる。

分解という創造
視点を分解者の側に移して見ると、分解はある種の探索、野に分け行って木の実を探し集めるようにどこかに隠れていたものを採取する感触に近い。素材や部品として再度活用できるものや感性に共鳴するものを探し求める狩猟的な眼差しで分解の過程に対している。創造的な探索と言って良い。
全体における役割と入れ子の構造から解き放ち、全てを等価なものと見做し一つのテーブルに並べてゆくとき、別のモノに見え始める。明らかに別のものとして認識しその存在を認める瞬間、ある種の創造が生じている。つまり別の意味が見いだされ、物質として加工はされていないが、自ら作り出したことと同等の価値が生じている。創造に受動的なものと能動的なものがあるとするならば、この場合は受動的なものと言えるだろう。だが、そもそも創造は入出力が入り乱れ、人間の意識のフィードバックによって生まれるのであるから単純に能動とは言いにくい。創作に対して人それぞれの認識を持っていると思うが、私は眼前で生じている現実の出来事と、身体と意識の系をつなぎ合わせ出来事と同化するような感覚を持っている。これは単に感覚なのではあるが、構築的に作品を作り上げる過程においても、逆に一つのものを分解してゆく過程においても同様の創作的な感触を感じている。構築と分解、一見対照的な2つの過程ではあるが、同種の手応えにより駆動されている。その過程の先に未知なる外部があり、その余白に対して可能性としてあるものが現実の現象に転ずる瞬間に立ち会うこと、それも自他が一つの系をなすような傍観ではない形で関われることの歓びが得られる。

分解と破壊
なぜこれまでに分解することへの欲求があるのかと不思議に思えてくる。分解の過程は、単純化して言うと「分ける」作業であり、「分ける」ことで「分かる」つまり理解することにつながっていることは解しやすいし、科学的な思考の源ともつながる。だが、それは副次的なものであり、 本当に分解と言う行為を牽引する欲求は別にあるように思える。
分解と同様に色々なものを壊してきた。その記憶が隣り合わせにある。分解とは破壊のスローモーションなのだ。ゆっくりと一つ一つを解きほぐしながらそれらが機能を失い意味を失ってゆくのを順序建てて読み解いて行く一連の流れなのである。だから根本の欲求は破壊と共通している。 もう少しその欲求を分解するならば、その根底には変容する姿を知覚することへの欲求が通底していると思う。 破壊すること、または分解することを通して、もともと持っている自分の中での先入観や社会的な意味や働きをことごとく剥奪した後に何が残るのか、またその過程での変化を見届けたいと思うのである。モノそのものの状態ではなく、その現象的な側面に注目することで、よりそのもの自体の特性が露呈する。そのものが何であるかを知ることより、そのものが持つ可能性が現実になる瞬間に立ち会い感じ取りたいと欲している。破壊は垂直的に跳躍し、分解は水平に下ってゆく、その運動を一連の旋律として味わうことに尽きる。そして既にそこには、なすべき目的などなく、自己充足的な実感を組み上げるための源泉が隠されているはずだ。

2023年4月   三浦秀彦

三浦秀彦

1966年岩手県宮古市生まれ。1990年代より地平線や地形、大気をテーマに身体性やインタラクションを意識したインスタレーションの制作と発表を続ける。ヤマハ株式会社デザイン研究所勤務後、1997年渡英、ロイヤル・カレッジ オブ アート(RCA) ID&Furniture(MA)コースでロン・アラッドやアンソニー・ダンに学ぶ。2000年クラウドデザイン設立 。 プロダクト、家具、空間、インタラクション等のデザインの実践と実験を行い、 日常の中にある創造性や意識、モノと場と身体の関わりについて思考している。

三浦秀彦ウェブサイト